34 レネ国立精神病院

 仕事の休みを利用してレネ国立精神病院を訪れた麗奈はその重厚な佇まいに吐息した。真っ黒なレンガで組み上げられたその姿は一見すると軍事施設のように思える。品はあるがそれをかき消す威圧、出てくる感想は決して優美などという物ではない。エントランスはアーチ状にレンガが組まれていて、その前の低木には申し訳程度にツツジの花が咲いている。


 アーチをくぐった麗奈は病院内へと踏み込んだ途端、肌に触れる空気が変わったのを感じた。ねっとりとした緊張感。祖父の見舞いで病院へ行ったことはあるがそことは明らかに違う空気、精神科という場所は麗奈は初めてなのだ。気持ち悪くてそれ以上進むことが出来ずに傍の長椅子に腰かける。何とか世界のことを知りたいと思った。でも、怖い。怖くて堪らない。俯いていると声を掛けられた。


「どうされました」

 顔を上げると紺色の制服姿の女性がいた。


「え、ああ、あの大丈夫です」

 そう言って麗奈は口を噤む。


「お加減悪ければ診療いたしますよ。受け付けはお済ですか」

 そうか、この女性は看護師なのだと気付く。


「大丈夫なんです。気分が悪いだけで」


 看護師は困った様子で押し黙る。麗奈の様子を少し伺って気配りをしてしゃがみ込むと「気分が悪くなったら行ってくださいね」と目を見て言葉を伝え、その場から去った。


 ここにいてはすぐに声を掛けられると思った麗奈は立ち上がると病室を探すことにした。目当ては人魔の呪詛を受けた患者。人魔の呪詛はどれほど恐ろしい物なのか。呪詛の正体、侵された人々はヨミで何を見たのか。それが知りたかった。


 患者を探してうろうろしたけれど、どこにも見当たらなかった。恐らくは閉ざされた木戸の奥。木戸の前には看護室があって、人知れず入ることは不可能だった。諦めるというのも選択だが、ここまで来た。目一杯嘘を吐こう。麗奈は背筋を伸ばすと看護室へと声を掛けた。


「お父さんのお見舞いに来ました」

 声に気づいた看護師が寄ってくる。


「どなたのお見舞いですか」

 問いかけられて麗奈は内心焦る。答えられないと思ってさらに嘘を吐く。


「ジェスです」


 即座に頭に浮かんだ名前。同僚のジェスに名前を拝借することを悪いと思いながら堂々と振る舞う。


「ジェスですね。ご案内します」


 案内といわれてまずいものを感じたが引き下がれない、長いものに巻かれる気持ちで看護師に続いた。看護師の手にしているのはカギ。それを木戸に差し込み回す。カギがかかっていることさえ知らなかった。


 看護師に案内されながら本物のジェスに会ったらどう振る舞おうと考える。少し考えが無かった。相手に知らないと言われればそれまでなのだ。

看護師は複雑な経路をたどって麗奈を病院の上階へと連れて行く。階段を上り、いくつもの木戸の鍵を開けて閉めて。


 どこまで行くのだろうと思いながらも聞けない。次第に大きくなるのは周囲から聞こえてくる唸り声。通り過ぎる病室の中から廊下にまで気味の悪い声が響いている。ホラー映画のような音、これが人間のさまなのか。


「大丈夫ですよ、大丈夫ですよ」


 看護師が患者を宥めているのだろうか。空気がひりついている。

 たくさんの扉を超えてたどり着いたのは最上階のである5階の突き当りの部屋。一番遠い場所。看護師がノックしてカギを回す。病室に直接カギがかかっているようだった。


「入りますよ、ジェスさん」


 そう言って扉を押し開く。中はベッド以外に何もない真っ白な部屋だった。ベッドには唸りながら目を見開いて天井を見上げる男性。彼がジェスらしい。焦点はあっておらず、精神に異常をきたしていることは即座に理解できる。


「お嬢さん来てくれましたよ」

 看護師が囁くように呼び掛ける。ジェスは80歳くらいのおじいさんだった。


「今日は良い天気ですね」

 正気を保てぬジェスに彼らはこうして日々呼びかけているのだろうか。


「ああああ」

「そうですか、嬉しいですね」


「お嬢さん呼びかけてあげてください、会話をしてあげることが大事なんです」

「お父さん来たよ」

 適当な言葉を選びながら話しかける。


「10分ほどしたら来ますね」


 そう告げると看護師は部屋の外へと出て行った。


 残された麗奈はどうしようか考える。見知らぬ男性と部屋に2人きり。問うべきこともあるけれど会話が成立する気はしない。


「ねえ、ジェス。聞きたいことがあるの」

 そういって麗奈は静かに呼びかける。ジェスの目は見開かれて瞬きもしないまま。


「あなた人魔について知っているでしょう。あなたは何を見たの。ヨミの国には何があるの」


 静かにジェスの唇が動く。麗奈はそれを聞こうと耳をそっと近づけた。


「じん……ま……」


「そう、人魔よ」


「じん……ま……」


 ジェスの乾いた目から涙が一筋零れる。


「えっ」

 麗奈は声を漏らした。


 次の瞬間ジェスは勢いよく起き上がり、そのまま麗奈の首を締めあげた。

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