33 出兵のファンファーレ
王宮楽団が楽器を抱え一心に待っているのは国主であるアーサル国王のただ一人の嫡子イーグル王子だった。齢45歳になる王子は美しい妻と3人の子に付き従われて赤紫のマントを翻し、長大な石階段を降りる。纏った重厚な鎧が表すのは戦地へ赴く決意。今度の出兵は国境付近で警備を続ける者たちを激励するという重大な目的があった。
「殿下、どうかご無事で」
美しき妻が瞳を潤わせて、祈りの言葉を溢す。もうじき成人になる子たちも殊勝な顔で敬愛する父の出立を見守った。
傍に立つ父母、アーサル国王とエルミナ王妃へと膝をついて忠誠を誓うと傍に控えた葦毛の馬へと颯爽と跨った。
馬の一歩で楽団の指揮者が指揮棒を振り上げる。緩やかに始まる出立の音楽。送り出す音楽はもっと明るく心弾むファンファーレかと麗奈は思っていた。奏でるメロディーの哀愁。故郷を離れ、漕ぎ出した大勢の人々の行軍は国境の町サーヴァインまで続く。
王妃は涙を拭い、それを家族が慰めている。父隆行が出兵する際は音楽さえなかったに違いない。人は平等ではない。大切に扱われる者と単なる駒でしか無い者。
麗奈はフルートをそっと下げる。まつげを瞬かせて遠くを見たけれど、もう馬の後姿さえも見えなかった。
「ファンファーレを奏でないのは出陣ではないからだよ。これは戦争じゃないんだ」
城の練習室であふれる疑問をぶつけるとジェスがそう答えてくれた。
「戦争じゃないの?」
麗奈はフルートの掃除をしながら問い返した。ジェスはもうとっくにトランペットをケースに仕舞っている。
「レイナはまだこの国の状況を知らないようだね。いいかい、この国の情勢は常に防衛スタイルだ。ヨミから流れて来る異物を排除しているだけ。スイープ、掃除だよ」
「人魔はこの国に侵略を仕掛けているのかしら」
神妙な顔で呟くとジェスが微笑む。
「それほど意思を持ったものではないと思うがね」
「人魔についても何も知らないの。ジェス教えて」
「いいよ。ゆっくりワインを飲みながらこの国の行く末について皆で話そうじゃないか」
今日の仕事は終わり。気の合う楽団員5人で洋食店で食事をする約束をしている。酒は飲めないけれど、語ることは山ほどある。麗奈はフルートをしまうとケースを持って立ち上がった。
到着したのは城から歩いて5分ほどの商店街の中心地に近い、白壁に焦げ茶の木柱が栄える、赤レンガの屋根の店。とても可愛い構えの洋食屋だった。内装も可愛くて木を基調としたテーブルにイス。素朴な温もりを感じさせる趣味の良さ、ジェスが好みそうな優しさがある、そんな風に思った。
気取りのない料理とワインを飲みながら皆心を解きほぐしている。合奏とは息が大事、こうしたコミュニケーションを時に持つことは打ち解けるために必要なのだ。
「ねえ、人魔って何かしら。人ってついているけど人なの」
「まさか」
答えたのはパーカッションのフィーナだった。フィーナには7歳の可愛らしい息子さんがいる。37歳の優しいお母さんだ。
「人で無いならどんな生き物なの」
「黒い生き物だって言われているけれどね。捕まえて解体した人がいないからよく分からないんだよ」
そう言って木管楽器のヨハンが答える。
「解体ってヤダ」
酔ったフィーナがふふふと笑う。
「人魔は呪詛を与えるって家族に聞いたの、でも呪詛ってどういうこと。呪いでしょ。呪われた人ってどうなるの」
皆目を合わせて少し困った様子で口元を引き結んでお道化ている。
「レイナ、知りたい気持ちは分かるよ。でも、深入りするのは良くない」
ジェスの穏やかな言葉に麗奈は気落ちする。少し焦り過ぎたようだ。今日は楽しい食事会、これ以上続ければそれを台無しにしてしまうだろう。
「ごめんなさい」
皆最年少の麗奈には優しくて、でもそれに縋ることは甘えだ。
「レイナ、知りたいならね……」
「ちょっと、ヨハン止めなさいよ」
フィーナが言葉を遮る。酔いも覚めるような尖った声だった。
「彼女にも知る権利はあるよ」
そう言い置いてヨハンは深い息を吐いた。
「町の外れに人魔の呪詛に侵された人々を収容している病院がある。そこに行けば何か分かると思うよ」
「病院」
麗奈は噛みしめるように呟く。全く聞いたことのない情報だった。それはもしかすると人々が敢えてひた隠しにするこの国の抱える闇かもしれない。それも麗奈にとって極めて大事と思える世界の核心。
人魔に関してはそれ以上言及しなかった。誰も皆酔いも回ってバカ話に興じている。この楽しむ空気を壊すことは無粋だ。
麗奈は1人抱え込むように得られた情報を反復した。
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