37 呪詛
「ふぉうっ、ふぉうっ。ふぉうっ、ふぉうっ。ふぉうっ、ふぉうっ」
闇の中で振るう隆行の渾身のサイドチェスト、零れ落ちる汗が
暫く侵入の意思を見せていた人魔だが、ようやく後ずさりすると尾を巻いて静かにヨミの国へと逃げ帰って行った。
「今度のはきつかったな」
仲間の声に隆行はそうだなと頷く。そう、彼らの援護が無ければ危うかった。疲労しきって神経が悲鳴を上げている。喉は乾き、腕にはこれ以上の力が入らず後続が来れば間違いなく刺される。
助けてくれたうちの1人の兵士が喉を鳴らして美味そうに水を飲んだ。
「おれにも分けてくれ」
もう1人の兵士が水筒へと手を伸ばした。口づけで飲み干すと安堵の息を吐く。
「まだ、日を超えていない。今夜はきつい夜になりそうだ」
夜の攻防は昼間に比べてずっと神経を使うと聞いていた。夜は人魔の漆黒の姿を隠すのだ。配属された時からずっと夜だったので隆行はその厳しい環境に慣れてしまっていた。
「お疲れ様です」
声がしたので振り向くと補給兵がいた。彼の持ってきた水筒を3人で2つずつ分け合う。
「厳しいですね」
補給兵の言葉に皆言葉もなく頷く。
「また来ます」
そう言うと補給兵は森の外の野営地へと戻って行った。
仲間2人が左右の持ち場へ帰り、隆行はまた1人になる。人員は30メートルごとに配置されていて、昼夜人員交代をしながら長い国境を守り続けている。
一人になると思い出すのは家族のこと、隆行がつけた銀の腕時計は昨年の誕生日に家族から贈られた物だった。きっと由美子は高齢者を2人も抱え、忙しくしているに違いない。自身同様戦地へ送られて聡司それに麗奈、2人の子供は学校へも行けていない。祖父母は病気などしていないだろうか。モモは元気か。
自身がいないことで家族にどんな影響があるか知れなかった。自分は家族を背負っている。結婚して家族を持ってから一度たりとも忘れたことはなかった故に、現実が辛く押し寄せた。
不意に闇が激しく震えた。寒気がして汗が即座に引く。この地に来て初めて感じる種の異変だった。隆行は視線を絞ると全神経を闇へと集中させる。巨大な何かがゆっくり這ってくる。槍を掲げて、それを迎え撃たんと歩を進めた。
「ふぉうっ、ふぉうっ。ふぉうっ、ふぉうっ」
口を動かしながら、相手を探るように近づいていく。槍で茂みを掻き分けて敵を探る。茂みの中から這い出た巨大な生物の正体を見て隆行は言葉を無くした。まるでどこかのアニメで見たような巨大な漆黒の水塊、体をふるふると震わせながら植物を飲み込むようにゆっくりと近づいてくる。
——―無理だ。
隆行は即座に首にぶら下げた銀の笛を吹いた。森に警音が響き渡る。仲間が駆け付けるまで時間を稼がねばならない。隆行は槍を振るうと「はあっ!」と気合を込めた。
気持ちを猛らせるように槍の演武をする。両手に力を込めて握りしめ、熱量を込める。森に降り注ぐ月明かりに反射して切っ先が光の筋を描く。空気を薙ぎ払い、悪しき物をくじく覚悟。頭上で回し、突きを繰り返し。全て我流の動作だけれど、恥ずかしさはもうなかった。
近づいてくる気配が段々と威圧を増す。隆行はもう一度笛を吹く。仲間は来ない。仕方なしと隆行は覚悟を決めて、もう一度「はあっ!」と叫ぶ。
相手が少し怯んだ。それを機会と決めこんで隆行は即座に突きを繰り出す。槍の柄は最低限の間合い、それ以上は決して近づいてはならぬ。もう一度声を発する。
一刻が無限に思えるような対峙をしてようやく相手が怯みを見せた時、一瞬だけれど気持ちが浮いた。ほんの一瞬、ほんの一瞬の気の緩みだ。
「国境を超えるな!」
仲間の警告の声が届く。隆行はそこで初めて侵入し過ぎていることに気がついた。自身が足を着けている地はすでにヨミの国なのだ。
隆行は即座に後退しようと身を引いた。生じたわずかな隙、気が付くと同時に目前の人魔の身体が大きく揺らめいた。大きな体が触手のように伸びて隆行の身体を大きく包み込む。
「タカユキ!」
仲間が呼ぶ声が遠くで聞こえた。藻掻き何とか抜け出そうと抵抗するが背を抱き込むように水塊がどんどんと伸びて身体覆っていく。腕を突っぱねて身を捩り、背を向けて水を掻き分ける。足が縺れて地に転ぶと走り寄る仲間の姿が見えた。
「タカユキ!」
地に爪を立てて何とか起き上がろうと力を込めるが立つことさえ出来ない。圧し掛かるように水塊が降り注いだ。全身が包まれて次第に走り寄る2人の姿がぼうっと霞んでいく。視界が黒に染まり水塊の中で最後の息が漏れた。不快で臭くて恐ろしくて。皮膚から侵入してくる恐怖。心を蝕み、生ける魂を
――ああ、これが呪詛か。
隆行は人魔に取り込まれ、そのまま意識を失った。
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