ヨミの国へ

16 地図の真実

 墨で丁寧に描かれた地図には『黄泉』の国を中心とする近隣周辺諸国の地形が記されていた。長野県のような形の大きな国、黄泉の周りに周辺の3国があってそれぞれに国名がある。レネ、カソ、イルダ。それらはカタカナだけれど、なぜか黄泉だけは漢字。この地図が日本の物と言われれば頷けるが、それにしても『黄泉』というのは心が穏やかでなかった。


 呆然と立ち止った隆行に主人が寄った。


「ああ、古地図にご興味がおありですか」

「あの、その。……黄泉というのは」

 指先の震えが喉元にまで届く。声を詰まらせながら問う隆行に主人は笑いかける。


「黄泉と書いてヨミ、今はもう廃れてしまった古い漢字ですよ」

「廃れた」

 隆行の問いかけに主人は頷く。


「この漢字の直接の意味はあの世と言うことですね。今はもう皆カタカナでヨミと書きますけど、由来は漢字の黄泉から。そうであったと祖父より伝え聞いています」

「あの世」

「およそ500年前、違う世界よりこの世界に辿りついた我々の祖先は初めこの地をあの世であると勘違いしたそうです。そのことから当時暮らし始めた国を黄泉と呼ぶようになりました。黄泉の表記は月日を経てカタカナのヨミへと変化しまして、今はもうその国名の由来さえ知っている人は少ないですけれどね」

「そうですか」


 ヨミというのが名ばかりの物と知り、内心ほっとする。この世界に遥か昔に辿りついた人たちがいて、苦境にあえいだのが自分たちだけでは無いということも分かった。


「それはどのくらい昔の話なんですか」

「500年くらい昔だって聞いてますけどね。もっと古い話かもしれません」

「500年」


 果てしない時間がこの国で流れてきたのだ。それを想うと空恐ろしさを抱いた。


「流れ着いた過去の人々はどうなったのです。元の世界に帰れたのですか」

 心が急いて口調がつい詰問のようになる。


「さあ、そこまでは。ただ、私の先祖にその世界からやって来たといわれる者がおりまして言い伝えによると彼はこの地で亡くなったらしいですけど」

「そう……ですか」

 肩を落とした隆行に主人が笑いかける。


「ご興味があればお茶でも飲みながら昔話をいたしましょう。まずはお疲れでしょうから部屋に入っておくつろぎになってください」

 もやもやとした気持ちを残しつつも隆行は促されて、壁際の階段を登った。


 個室を与えられて隆行は息を吐いた。小さな部屋だけれど、掃除もされているし清潔な布団がある。それだけで十分と思えた。何しろ野宿はきつかった。布団に倒れ込むと放心した。天上の景色がぐらぐらと揺れる。疲労困憊で何も考えられなかった。世界の秘密も真実も、考えなくてはいけないことがあるのにまるで心が追いつかない。


 すっと視線を下ろし壁に目を這わせると『便所』と書かれた墨字があった。トイレ。どこまでも馬鹿にしている。トイレのせいでこうなったのだ。トイレさえリモデルしなければこんなことにならなかった。恨み節を思い描きながらも、瞼が落ちてくる。そのまま意識は柔らかな布団へと沈み込んでいった。


 眠りこけて主人に起こされたのは夜だった。夕食は質素な物であった。脇田家の食事こそが豪勢だったのだと気付く。由美子が懸命に料理してくれていたおかげだろう。


 他の者たちは疲れて物もいえない様子だった。肩を下げて、もそもそと食事を口へ運んでいる。食器の立てる音と咀嚼音だけが静かに響いている。速やかに食事を終えると皆、会話を交わすこともなく部屋へと上がってしまった。


 食事を終え残った隆行の前に主人が腰かける。食後の紅茶を出してくれて、それを口に運んだ。たしなみがないので種類も分からないけれど柑橘系の香りがする。


「最近購入した茶葉です。これも恐らく流れ着いた物ですよ」

「流れ着いた?」

「時々どこからか不思議な物が流れ着いてそれを集めて商売している人々がいるのですよ」

 どこからか、それは恐らく日本ということかもしれない。


「こちらのお宅はなんだか、不思議な物が多くて驚きました」

「私は漂流物コレクターなんです。先祖のこともありますし、何だか愛着がありまして。こうした物は行商人から購入するんですよ」


「人が流れてくるということは無いのですか」

「遥か昔に流れ着いた人々が文明の始まりとは聞いていますけれど、実際にそうした人々が今でもいるかは疑問ですね。そんなの聞いたことがないです。もしかしたら人々が流れ着いて文明が始まったということも事態も眉つばかもしれないですし。っていうとご先祖様が怒るかな」


 隆行は思考を巡らす。事例はないかもしれないけれど自分たちは実際に辿りついた、辿りついてしまったのだ。


「逆にこちらからどこかへ流れ着くということはないのですか。たとえば人がよその場所に」

 すると主人は肩を揺らして可笑しそうに笑った。


「何だかおとぎ話みたいですね。仮にそういう人々がいたとしても証明する術はありませんよ」

 それは確かにそうかもしれない。けれど、隆行にはまだ可能性に縋りたい気持ちがあった。


「その行商人というのはどこから商品を仕入れるのですか」

「ええと、それは教えてくれなかったんですけど。彼らはどこかで大量に拾っているみたいですね」


「拾う?」

 はい、と頷いて主人は紅茶を流し込む。


「ご興味がありましたら私のコレクションと先祖の逸話について語りましょう」

 そう言い置くと主人は嬉しそうに自身の知る様々な話を語ってくれた。隆行の分かる話もあったし、分からない話もあった。主人は名前も知らぬ日本という国についてやや夢想的に期待を膨らましているのだろうなとぼんやり想った。


 主人との話で断片的に拾えたこの世界の歴史。それをベッドの中でずっと考えていた。遥か昔に人々がこの世界に流れ着いて自分たちの住む国を黄泉と命名し、それがのちにヨミとなった。次第にヨミに人魔が溢れ、住めなくなった人々は周辺国へ移り住み、レネ、カソ、イルダという国を作った。人魔はそれらの国を侵略しようとしている。そのために今自分たちは国境へと向かっている。そして、この世界には時々日本の物が流れ着く。


 また彼はこうも言っていた。先祖は帰れなかったと。人生をこの地で終えたのだ。全ての話を総合して分かったことはただ1つ。


――もしかすると日本に戻る方法はもう無いのかもしれない。

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