15 トルチェの村で

 時を遡ること4日前、隆行は行軍の列で辟易としていた。足が棒になるほど歩いてそれでも隊列は止まらない。前を行く兵士長はのんびり軍馬の背で揺られていい気なものだ。隣を歩く男もそれが不満な様子で「ちくしょう、馬いいよな」とボヤいている。


 隆行はまるでこの世界のことが分かっていなかった。一体何から、どんな存在から国を守ろうとしているのかさえも。この国の抱える恐怖を隆行は知らないのだ。


「人魔とはそんなに危険な生き物なのか」

 隆行の問いかけに隣の男がはっと笑う。


「オレも見たことはねえよ。知ってるだろ。この国は人魔の侵入を許しちゃいないんだ」

「そうか」


 話を理論的に組み上げる癖のある隆行は自身の抱える情報を整理する必要性があった。スマートフォンが使えるということ。電波がつながるということ。もしかするとここは元いた世界と同じ世界にある未発見の大陸なのかもしれない。だが、現在地が自宅を示していたという事実で全てが曖昧になった。


「分からないな」

 腹立たし気に呟いた隆行に隣の男は笑いかける。話の続きと思ったのだろう。


「人魔ってのは怨念の塊だっていわれてるけどな」

「怨念」

 言葉を噛みしめる隆行に男はさらに続ける。


「この世界には初めヨミの国しかなかったって神話は知っているだろう」

「ああ」

 本当は知らないけれど相手の口調に合わせる。


「すべての人々は元々ヨミの国に住んでいた。それが何某かのトラブルで人魔が大量発生するようになって住めなくなった。ヨミを逃げ出した人々は隣国を造り、それぞれレネ、カソ、イルダと名乗るようになった」

「ここはレネと言ったな」

 男が怪訝そうに眉をしかめる。


「お前本当に大丈夫か」

「ああ、いや大丈夫だ」


「各国はヨミから溢れ来る人魔を払うのに必死で領土争いどころじゃない。土地を広げれば広げるだけ人魔の脅威が増すからな」


 先ほどから会話に覗くヨミという言葉が引っ掛かる。ヨミとはまさかあの『黄泉の国』ではないだろうかと。そうなると今いるのは――

 嫌な考えが噴き出してきて背筋を汗が伝う。隆行は首を振るとその恐ろしい可能性を否定した。全く以ってあり得ない話だった。


「ヨミというのはどんな国なんだ」

「ヨミは空気が汚れて、汚泥もひどいらしいぜ。人はもう住んでないって噂だけどな」


「あの世というわけではないのだな」

「はあ? お前何いってんだ。ヨミがあの世なわけないだろ」


 はははと笑われて隆行は口ごもる。少なくとも懸念が払しょくされてそれは良かった。


「ああ、2か月か。11月まで戻れないと思うと気が滅入るな」


 11月。努める建築事務所は恐らく繁忙期だ。急に消えて迷惑をかけているかもしれないと思うと忍びなかった。何より家族のことが心配で由美子はどうしているのだろうと不安になる。年老いた両親も困っているに違いない。麗奈、それに聡司。向かったのが危険な地でなければいいとそれだけを願った。



 その日の昼ごろ、軍列はようやく初めての村に到着した。トルチェという閑静な村だった。深緑の木々に埋もれそうな小さな木造りの家がいくつか。北欧の森のロッジの雰囲気がある。行軍して来た道中より気温が2、3度低いような涼やかな気配がした。

 皆の目前で馬から降りた兵士長は声を上げた。


「初めだからいっておく。軍からの離脱は罪である。対価は全て愛する家族に降りかかるということを覚えておけ」


 それまで隆行は逃げようということを考えていた。だが、その考えさえも見抜かれている。そうした人物が少なからずいるのだ。さらに兵士長は続けた。


「村からの略奪も許さない。水浴びを終えたら宿舎に入って体を休めろ」


 それでは解散、という凛とした声を聞き届けると皆飢えたように広場の中央の井戸の周りに群がった。木桶で水を汲みあげる心地よい音が鳴る。聞いているだけで砂漠のように乾いた心が潤う音だ。我先にと組んだ手を木桶の水に沈める。手ですくい上げた僅かな水が塩辛い喉に沁み込んでいく。1口だけでは足らずもう1口運ぶ。ああ美味しい。


 水を口にし終えると井戸に近い者から順に水を被っていく。埃っぽい汗を流し、靴を脱いで火照る脚を冷却する者もいた。


 満足するまで潤うと皆粛々と宿へ向かい始めた。水をやっと被ることが出来た隆行も指示された宿へと向かう。隆行に割り当てられたのは古ぼけた民家。陽に焼けた木肌が過ぎた年月を想わせる。建築士だからつい気になってしまう。柱が太いなと。


 共に止まる仲間は5人いた。宿舎に入ると宿屋の主人がにこにこと出迎えてくれた。


「お勤めごくろうさまでした。お部屋をご用意してます。ゆっくりお休みください」

 手揉みをしながら言うのでついつい、いい商売なのではないかと考える。軍が毎度ここで宿泊しているのならばそれも頷ける話だ。


 それにしても和洋折衷だなとそれが気になる。ところどころに飾られた日本人形、掛け軸、カウンターの折り鶴。焚かれている香は白檀の香りに似ている。この世界に来てそういった物を目にするのは何しろ初めてだった。


 玄関の突き当たりの壁を見て隆行はハッと息を飲む。図面と同じくらいの大きさの地図があった。

 信じられぬ物を見た心地がして、震えながら歩み寄る。


――地図のど真ん中には大きく墨字で『黄泉』と縦書きされていた。

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