11 役所で君江、怒る
役所は町の中心部にあった。石造りの重厚な建物で、日本の役所の近代的なイメージとは大違い、伝統ある格式はむしろ欧州の物に雰囲気が近いだろう。BS放送で見たイギリスの庁舎を思い出す。まるでそっくりだ。気持ちがいいほどの大きな青の国旗をはためかせそれが風雅を惹き立てている。役所には多くの人々が出入りしていた。相変わらずの色とりどりの頭と美しい目、日本ではないのだと改めて感じる。カウンターの奥では白髪の巻き毛のかつらを着用したたくさんの職員がせっせと仕事をこなしていた。
「どういうことよ!」
目を三角に怒らせて、君江は役所の机をだんと殴った。由美子と2人で徴兵への不服を訴えるためにやって来たのだが、あまりにお粗末な対応で君江の怒りが頂点に達した。
「あのですね、従軍は国の制度で」
「それは国民にのみ強いているとあんたさっきいってたでしょう!」
「おばあちゃん、血圧が」
心配する由美子を振り切り君江は熱弁を振るう。
「何度も説明するように私たちは国民じゃないんだ、国に従う義務何てないよ!」
「でも、この国にお住まいなのですよね。でしたらやはり」
「不慮の事故だっていってるんだ、あんただってこんな世界に放り出されてみなさいよ。私たちの気持ちが分からないっていうんじゃないだろうね」
「はあ」
いっていることの大半が理解不能な様子で受け付けの女性職員は怪訝そうな顔をした。
「息子も孫も戻してもらう、あなたじゃ判断出来ないというなら国王でも何でも呼び出すんだよ!」
国王というフレーズに女性職員は答えにくそうに言葉を絞り出す。
「国王はですね、ご多忙で」
「国民が困っているのに多忙って何なの! あんたたちのせいで一家離散だよ!」
「先程、国民ではないと……」
「いちいち揚げ足を取るんじゃない、嫌な女だね!」
怒鳴りつける君江の声に女性職員の顔が歪んでいく。女性はううっと泣きだしてしまった。
交代して対応した男性職員は申し訳なさそうに女性が述べた通りの理由を改めて繰り返した。
「申し訳ありませんが、これ以上こちらでは対応しかねます。従軍されたというのであればふた月後には帰ってきますのでそれまでお待ちください」
君江はまだむかっ腹が立っていたが、それ以上は押し問答。結局、由美子に止められて怒りを保持したまま引き下がった。
役所の長イスに腰掛けると沸騰した頭を押さえながらよろめいた。血圧が舞い上がっているのを感じる。
「おばあちゃん、落ち着いた?」
「まだよ」
額に手を当てながら、目をぐっと閉じる。まるで怒りがおさまらない。
「隆行と
隆行と聡司がいないことも問題だけれど、目下の問題は所持しているお金が全く使えないということだった。
「食材は少しあるの、でも1週間はもたないわ」
由美子は困ったようにため息を吐く。家では麗奈がトイレに向き合って帰る方法を色々試しているけれど、今朝手書きで書いたトイレットペーパーの文字を流しても意味はなかった。当面戻るということは叶わないだろう。
どんな場所であれ生きていかなければならない。命ある人間なのだから。
「ああ、墓に入りたいわ」
うんざりとしたように吐き捨てる。由美子が声を大きくした。
「おばあちゃん冗談言わないで」
家族とけんかするたびにそう吐いたけれど、今の状況は特殊だった。君江は本当に墓に入りたかった。
帰路、町並みを眺めながら歩いた。買い物好きの君江だけれど、今はどれも手にすることは出来ない。美味しそうな艶やかなリンゴ、熟れたキウイ、香り立つラフランスどれも好物だ。休みの日など隆行に運転してもらいよく市場へ買い物に行く。果物で散財しているといっても過言でないほど果物が大好きなのだ。恨めしそうに立ち止まり屋台を眺めているとそれを見ていた由美子が少し置いてにっこりと笑った。
「おばあちゃん、私働くわ」
思わず驚く。思ってもみなかった発言だ。目を見ると由美子の表情はいつものように朗らかだった。フットワークの軽さ、前向きで明るい心、働き者の嫁にはずっと感心してきたけれど今回ばかりは応援できなかった。
「こんな場所に来て働かなくてもいいのよ」
そうはいったけれど心の根底にお金がないという不安があった。
「じゃあ、どうするの2か月も。皆食べていけないでしょう」
そうして初めて自身が物欲しそうに見ていたことに気付く。言葉にしなくても分かってしまったのだ。由美子の意見も最もだったけれど君江はそれが悔しかった。老いた自分は食べるだけで何の手助けにもならない。
「お父さんと聡司が戻ってくるまでの間だけよ。大丈夫2人は帰って来るわ」
大事な夫と息子を失った由美子が前向きでいる以上、悔やみ続ける訳にはいかなかった。2か月は長い。つい日本で貰えるはずだった年金を悔しげに思い浮かべる。
「ごめんなさいね」
君江は空に申し訳なさを放った。
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