レネの国

7 トイレの女神はイタズラに微笑む

「きゃああああああ………………あああ、あ、……あああ?」


 白の景色に飲まれ、響き渡る麗奈の叫びが途中から疑問符に代わる。麗奈が目を開けるとそこは脇田家のトイレだった。トイレを出て確認するとちゃんと廊下も玄関もあったし、げた箱横の観葉植物もそのままだった。もしかしてという思いのままリビングに向かうと消えてしまったはずのモモと泰山、それに君江もいた。家族が全部揃っている。


「良かったあ」

 ぺたりと座りこむ麗奈にモモが駆け寄り、膝を登る。相当寂しかったに違いない。

「会いたかったよ、モモ。全て元通りね」


 メーカー側の説明通り全部元に戻ったのだ。その言葉に隆行が頭を抱える。


「一体これのどこが元通りなんだ!」


 床は山積みの家財で雑然としている。消えたお玉も見えた。これを片付けるのに多くの時間を割かなければならないだろう。けれど本当の問題はそこではない。上げられた隆行の怒りの矛先は真っ直ぐ外の景色へと向かっている。


 閑静な住宅地であったはずの脇田家の外の景色は一変していた。ガラス窓には近所の見慣れた日本家屋でなく、西洋の町並みがちらりと覗く。外には人もいるようだが何だか目がチカチカする。着ている物が派手だ。由美子が配慮してカーテンを閉める。どこか違う場所に来てしまった。少なくともここが日本では無いということだけは理解できた。



「さて、これからどうすべきかを考えよう」

 パニックになりながらも大黒柱である以上隆行は冷静に振る舞わなければならなかった。だがその提案を無視して聡司が驚いたように声を上げる。


「えっ、ここスマホ使えるよ」


 隆行もまた自身のスマホを確認した。ネットに接続するとちゃんと繋がった。即座に地図を確認すると驚いたことに自宅の位置だった。訳が分からぬと隆行は履歴に残っていたIFAXの相談室へと電話を掛けた。


『はい、IFAXお客様相談室です』

「先程電話した者ですが」

『はい、いつも御贔屓にしていただきありがとうございます』

「ここどこなんですか」

 隆行の声に怒りが混じる。


『異世界ですね』

 端的な返事が返ってくる。


「今すぐ元に戻して貰えますか」

『恐れ入りますがお客様、そちらはムリであると注意書きに書いておりましたが』


「ムリだと」

 隆行は語気を強める。


『こちらとしてもウォッシュレット総生産1億台目の記念事業なんですね。あくまでもサービスなんです。その気持ちを汲み取っていただけませんでしょうか』

「こちらの事情を汲み取るべきだろう。それが企業の姿勢じゃないのか。大体頼んでもいないサービスを……」


 小言にはうんざりといった様子で電話の相手は「じゃあ、失礼しますね」と会話を遮ると電話を強制的に打ち切った。以降掛け直してもコール音は鳴るが繋がらなかった。


 隆行は髪を掻きむしり、「ああああ」と唸った。トニックで整えた芳しいオールバックが激しく乱れる。


「ちょっと外に出てみようかしら」


 脇田家で最も好奇心旺盛の君江が立ち上がる。膝が悪いのも忘れて目を輝かせている。


「おばあちゃん止めてくれ」

 腹立たしげに制止する隆行を無視して君江は玄関へと向かう。人の話を聞かないは彼女の専売特許でもある。



 玄関を開けて君江は頭中が真っ白になった。開いた口が驚きのあまり塞がらない。目前に広がっていたのは気に入りの衛星放送で見たヨーロッパの古い町並みそのものだった。綺麗に成形された白の石畳の絨毯が通りの向こうまでずうっと続いてその先に西洋の家々が視界を埋めつくすように並んでいる。絵本の中のような色とりどりの可愛らしい壁と屋根、それは下品でなくむしろ完璧に美しく調和していて、ちぐはぐな日本の住宅街とは格別の品性があった。


 行き交う人々の衣服は鮮やか、まるで異国の演劇の舞台衣装のよう。君江は亡き夫と旅したアメリカを思い出した。人生で一度きりのブロードウェイの舞台。それとそっくりの風貌。皆目の覚めるような不思議な髪色をしている。まるで物語の世界だった。


 君江が一歩出ようとしたら大きな何かが目前を横切り、驚きのあまりひゃあと尻もちをついた。


「おばあちゃん大丈夫」


 心配してついてきた由美子が君江を介助する。尾てい骨が折れたんじゃないかと君江は尻を擦っている。由美子が前方を確認して少し安心したように君江に話しかける。


「おばあちゃん馬車よ」


 由美子の言葉に顔を上げる。君江の目前を過ぎ去ったのは輝く毛並みのサラブレッド、大好きな競馬中継で見慣れた可愛らしい栗毛の馬だった。だが、実物をこんなに傍で見るのは初めてのこと。2頭の馬は曳いている客車の乗降口が丁度脇田家の門前になるように停止した。君江はよいしょっと力を込めて立ち上がるにっこりと笑みを浮かべる。


「かわいいねえ」


 手を差し伸べて手前の馬の艶やかな腹をそっと撫でた。つるりとしたシルクのような触り心地だ。とても大人しく、人慣れしているのだろう。競走馬から比べるとやや肉感的な足腰で綺麗に切りそろえられたたてがみが首を上下させる度にさらりと流れる。糸のように柔らかで優雅な尻尾と宝石のように丸く大きな瞳を見て君江はほうと吐息した。頭の先から尾まで惹きつけるように愛らしい。衣装のような服を纏った品のある御者が降りて客車の扉を開けた。中から厳かに降りてきたのは白髪頭の、執事のような風体の痩せた小さな男だった。

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