2 憧れのウォッシュレットと消えたお玉

 母、由美子はパート先のスーパーで仕事終わりの買い物をしていた。夕食の買い物は毎日ここで済ませる。時間のない由美子にとってとても都合が良かった。

 夫の隆行は好き嫌いを言わないけれど野菜は食べない。姑の君江は牛肉が好きでパスタが嫌いだと文句を言う。娘の麗奈はダイエットのために肉を食べない。息子の聡司は揚げ物とパスタが好き。一体何を作れと言うのだ。これほど皆が好き嫌いを主張するなかで隣に住む実の父の泰山たいざんが文句を言わないことだけが小さな救いだった。


 メニューは鳥の唐揚げとマカロニサラダときゅうりの酢物とヒジキの煮物そして大根のみそ汁にした。欠かせない第3のビールを手に取ると買い忘れを思い出し食肉コーナーへと急ぐ。

 大事なモモのササミ。10歳になるチワワのモモは茹でたササミがお気に入りなのだ。どんなに忙しくてもモモのことを思い出すだけで心が和らぐ。10歳になるけれどまだまだ元気、長生きしてもらわなくては困るのだから。ササミを1パック買い物かごに入れるとレジへと急いだ。


 夕食の予算は毎日3000円、ひと月にすると9万円だ。激しすぎる好き嫌いが家計を圧迫しているのは事実だ。だが栄養バランスを考えて作ってもみんな好きな物しか食べない。だから、あれこれ用意する必要があるのだ。



 帰宅すると待っていたように姑君江がやって来た。疲れた顔を隠してただいまと言う。

「由美子さんトイレ素晴らしいわよ」

「おばあちゃん使ったの」

「まだなの」

 使ったことないのにどうして素晴らしいのだろうと由美子は考える。


「私分からないから由美子さん待ってたのよ。もう限界で」

「何やってんの、早く入らなきゃ」


 由美子が君江を急かす。君江は早速トイレへ向かった。

 ドアを開けたまま、由美子は説明する。


「トイレしたらこの小ボタンを押すの。大なら大ね」

 説明を受けた訳ではないがスーパーにも似たタイプがあるので見ただけで使い方は何となく分かる。この頃の電化製品という物は大体が分かりやすく作られている。


「ウォッシュレットも使いたいんだけれど」

「ああ、えっと。ウォッシュレットは……このボタンね」


 座ってから押すのよと伝えてドアを閉める。中から鍵が掛かる音がした。

 トイレの様子を外から見届けていると足元でキャンと声がした。小さなモモが居間で由美子を見上げて尻尾を振っていた。


「ああ、モモちゃんごめんね。ただいまあ」


 しゃがんで猫なで声を上げながら、モモの茶色の毛並みを鷲掴みにしてグリグリと撫でまわす。モモは嬉しそうにあくびをした。モモとの触れ合いは忙しい由美子にとってかけがえのない時間。由美子にすこぶる懐いているモモだが、主人はあくまで娘の麗奈だった。


 少しすると流水音がして君江がゆっくりトイレから出てきた。


「ふふふ」


 君江は満悦の表情だった。「最高」と端的に言い置くと部屋へと戻って行った。


 由美子は自分もトイレに行きたかったことを思い出し立ち上がる。入るとトイレの景色が朝見た物とは一変していた。由美子を歓迎するように即座に蓋が持ち上がる。存在感抜群の艶やかなその本体、時代の最先端をゆく洗練されたデザインを見て気持ちが高揚する。さすがは定価25万円、と値段をこっそり思い浮かべた。


 ビデをさっそく使ってみたが中々の心地、高級エステのような優しさを感じる。満足の笑みで手を差し伸べるとトイレットペーパーが切れていた。やあね、と呟きながら一番手前のストックを取る。君江が次のロールを補充していなかったのだ。包装紙を剥いで、セットする。恐らく誰かの貰いものだろう。とてもしっとりとしていてなめらかな上等のペーパーの感触がした。


 小ボタンで流すと音もなく滑るように回転しながら流れていく。メーカーが静音と謳っているだけのことはある。即座に堪る水、動作の早さも中々だ。高い買い物だけれど良かった。そう思いながら由美子はトイレを後にした。



 時刻は夕方になりモモの散歩から帰宅した由美子は夕食の準備を始めた。みそ汁を作ろうとしたところであることに気付く。お玉がなかった。


「ねえ、おばあちゃんお玉知らない」


 部屋で相撲を見ながら新聞を読んでいた君江に問いかける。


「朝洗ったわよ」


 朝の洗い物は忙しい由美子の代わりに君江がいつも担当してくれている。確かに朝使った記憶は由美子にもある。たぶんどこかに行ったというわけではないだろう。そのうち出てくる。由美子はスプーンで代用してそのことを深く追求することはなかった。

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