トイレの向こうは異世界でした
1 脇田家の新しいトイレと謎のトイレットペーパー
さて、脇田家がそもそもどうして異世界に転移してしまったのか。事の顛末を語るには全ての元凶である脇田家の新しいトイレについて述べなければならないだろう。清潔機能、洗浄機能、エコ機能、快適機能オール完備の最新式のウォッシュレット。建築設計士である父隆行が仕事の伝手で、三掛けで業者に発注した脇田家の新しい便器だった。
◇
その日は晴れだった。涼風がようやく吹き始めた夏の終わり。脇田家の愛犬、チワワのモモが外の気配を察して声高に鳴き始めた。待望の業者が到着したのだ。留守を預かる祖母君江はモモを捕まえるとお利口にしなさいと告げて檻の中に入れた。
君江は痛む膝を引きずりながら玄関の外へと出る。業者のトラックのバックする音を感じてモモは鳴いていたのだ。業者はトラックを家の壁ぎりぎりに停車させると颯爽と降りて人なじみのする笑顔を浮かべた。顔の焼けた中年男性だった。
「すんません、遅くなりました」
到着予告を15分過ぎただけだけれど、業者は非常に丁寧だった。
「本日、工事を請け負いますかつら工業と申します。いつもお世話になっております」
お世話になりますというのは君江の息子隆行と仕事上の付き合いがあるからだ。隆行から仕事を貰っている立場なので応対が非常に丁寧なのだろう。
挨拶も手短に業者はお邪魔しますと宅へと上がり込んだ。玄関のすぐそばのトイレのドアを開けて、確認するように呟きながらトイレを一瞥すると早速撤去の作業を始めた。
君江は傍に立って作業を見守りながら世間話を始めた。
「今の古いトイレ、何にも付いていないでしょ。冬になると寒くてねえ」
「新しいのには全部ついていますからね。快適ですよ」
快適と言う言葉に心が踊る。本当にこの選択をして良かった、君江はそう思った。実は新しいトイレを選ぶ時にデザインか、機能か、値段かで家族会議で随分揉めたのだ。デザインを主張する孫と値段を気にする嫁由美子、そしてとにかく良い物が欲しい君江。結局老齢の君江の尻事情を考慮して最新式の物を選んだ。その事情を業者に話すと彼は頷く。
「まあ、正直便器にも個性がありますからね。人が一生のうちトイレで過ごす時間ご存知ですか? 1年で2500回、一生にすると3年だそうですよ。人生を有意義に過ごそうと思ったらトイレ時間って案外馬鹿に出来ないんですよ」
「病院のトイレってすごくいいでしょ。だからあたしずっと変えたかったのよ」
「個室が広くて快適ですよね」
君江は毎週整形外科に通っている。そこのトイレが気に入りだった。
「うちも最近このタイプに変えましてね」
「あら、そう。やっぱりいいんじゃない」
「もうね、手放せませんよ。この便器じゃないと用足せませんから」
業者は笑って季節外れの汗を拭うと土台から外れた便器をごっそり持ち上げる。ゆっくりと抱きしめるように抱えて家の外へと運び出した。ぽっかりと空になったトイレ、引っ越ししたての空家のような喪失感があった。君江は即座に床を掃除する。便器が邪魔で普段掃除出来なかった所だ。随分と汚れていた
業者は数分して小じんまりとしたシンプルなタイプのトイレを運んで来た。
真新しい便器。輝くような白さが湛えるのは圧倒的な気品だ。まるで女王のような雰囲気を醸し出すそれに君江は気持ちよさを覚える。新しい便器の設置の作業を進めながら業者は語った。
「このトイレ自動で流れますからね」
「本当、それはいいわね」
「ここにね、センサーがついているんです」
そう言って業者はセンサー部分を指さす。
「流し忘れってのも無くなりますよ」
「へええ、賢いのねえ」
とてもいいことを聞いたと君江はほくそ笑む。実際そうしたトラブルが何度かあって痛い目を見た。
話しながら作業を手際よくこなす様を見て君江はプロだと感心する。亡くなった夫も息子も建築関係の仕事をしているで君江はその辺の興味があった。
蝶番がはまったような音がして、トイレの設置が完了する。ほんの2時間弱の作業であった。業者は一通り操作の説明をする。君江は殆ど分からなかったので、リモコンの大、小、エコ小のボタンの位置だけ確認して、詳しい理解は隆行に任せることにした。業者は説明の最後に小ボタンで流れることを確認すると工事完了ですと言って1つの紙で包装されたトイレットペーパーを差し出した。
不思議がる君江に業者はにこりと笑う。
「何か知らんですけどメーカー側のサービスらしいです。使ってください」
それではと頭を下げて業者は次の現場へと急いだ。
時刻は15時手前。もうすぐ由美子がパートから帰ってくる。
君江はトイレットペーパーを包みのままストック場所の一番手前に置くとトイレのドアを閉めた。
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