WC-トイレットペーパー1ロールから始まる異世界生活-

奥森 蛍

プロローグ

『国境付近の山中にて』

 レネの国の北方、サーヴァインの森で野営する国境警備隊は暗闇をみつめて吐息した。ゆっくりと吐き出される呼気は夏の終わりの暑さを孕み、不快を一層煽り立てる。兵士たちは昼間掻いた汗の名残を我慢してただひたすらに森に目を這わせている。一晩注力を保ち続けることは難しい。夜の帳が訪れてすでに6時間が経っている。少しの涼風が吹いた。慟哭の森を揺らし、遥かな空へと熱気を運んでいく。ひと時の風は止み、また静かな森へと戻る。


 人魔じんまとの決死の攻防はもう3日目になる。たくさんの松明を焚いて1匹たりとも逃がさないという覚悟を張り巡らして。火に群れた夏のヤブ蚊が鎧の中に飛び込んでは汗ばんだ体をくすぐる。堪らず、1人の兵士が鎧を脱ぎ捨てた。


「おい、迂闊すぎるぞ」

 暑さを精一杯堪える表情で仲間が警告の声を上げた。


「かゆいんだ、仕方ないだろう」

 苛立ちをあらわに兵士が体を掻きむしる。ボリボリと肌が擦れる音が夜気に響く。


「少しは静かにしろ」

 指揮官のたしなめる声に皆視線を落とした。


「相手は人魔だ。身を剥き出しにすれば命はない。それが分かったら鎧を被れ」

 鎧を脱ぎ捨てた兵士はさらなる言葉を飲み込むと渋々鎧をつけ直した。不快をぐっと我慢している様子だった。


「来たぞ」


 前方の山中に恐ろしの生き物の気配を感じて皆息をひそめる。最も恐れていた存在がやって来たのだ。ここで迎撃しなければ、奴らは人里に押し入り人々を襲う。何としても払わねば、それこそが国境警備隊に課せられた使命なのだ。


 やがて、近づいた敵の見目が露わになる。全身漆黒で目鼻立ちが曖昧な窪んだ顔を持つ人の群れ、いやあれはもう人と呼べないかもしれない。恐ろしい狂気を秘めた人ならぬ異形の存在だ。人魔は総勢20匹はいる。手に掲げた槍が怪しく光る。人血を吸わんと命を欲しているのだ。


 司令官は唇を噛みしめ思案した表情で切り札の名を呼ぶ。

「タカユキ!」


 指揮官の声に警備隊の中ほどにいた脇田家の大黒柱、隆行は即座に進み出た。

「ヤツらに馬鹿めと言ってやれ」

「やってみましょう」


 隆行は思いつめた表情で武器を捨てて敵の目前に立つ。腕を振り上げVの字をイメージしながら突き上げて王者をイメージする。あくまで、さりげなく腕はダブルバイセップス。

「ふぉうっ、ふぉうっ。ふぉうっ、ふぉうっ。ふぉうっ、ふぉうっ」


 威嚇するように声を響かせる。野鳥の声と共に怪しい声が森の空気を揺さぶる。この場で撃退できなければ部隊が危うい、何としても討ち払わねばならぬ。隆行の鬼気迫る威嚇をじっと見届けた人魔たちは何の反応も示さず。数分の後、示し合わせたようにその場を立ち去った。


 信じられぬといった思いを爆発させるように国境警備隊の間に歓喜の声が湧き上がる。


「すげえよ、タカユキさん」

「さすがタカユキさんだ」


 仲間は心底嬉しそうに尊愛の眼差しを向ける。指揮官までが感慨深い表情を浮かべている。


「タカユキ、素晴らしい働きであったぞ」

「恐れ入ります」


 粛々と下げる隆行の頭に笑顔はない。頭に渦巻くのは自身の置かれた境遇への戸惑いだ。

 そう、自身はこのような場所にいるべき人間ではないのだ。心の戸惑いが汗となって額を滑り落ちる。悔しく唇を引き結び自身の怒りを噛みしめる。


「(オレは、……オレは一体何をやっている!)」


 隆行の打ち震える怒りに答える者はない。大事な家族も今は遠い街で静かに寝ている頃だろう。そう思うと家族が恋しくて、設計士の仕事が恋しくて仕方がなかった。静かな森の警備は継続する。その後、隆行の戦いは夜半まで続いた。

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