WC-トイレットペーパー1ロールから始まる異世界生活-
奥森 蛍
プロローグ
『国境付近の山中にて』
レネの国の北方、サーヴァインの森に国境警備隊の姿がある。汗ばみゆっくりと吐き出される呼気には不快が混じり緊張をよりいっそう煽り立てる。一晩注力を保ち続けることはいくら訓練された兵士でも難しい。夜の帳が訪れてすでに6時間、時折の風が森の慟哭を誘い、遥かな空へざわめきを流していく。
「疲れた、あんまりだ。長すぎる」
「まあ、待て。奴らの足は遅い。こちらが願ってもやってこないのが常だろう」
「来たくなければ来なくてもいいんですけどね」
蚊に刺された皮膚をぼりぼりと掻く音がそこら中でしている。限界といわれればもうすでに限界はきているのだろう。
「相手は人魔だ。身を剥き出しにすれば命はない。それが分かったら防具をつけろ」
皮の胸当てを脱いで搔きむしっていた兵士はしぶしぶつけ直した。皮は汗で重く微かに変色している。
「来た、奴らだ!」
緊張が走った。前方の茂みからのそりのそりと重厚感のある足音がする。ここで退けなければ奴らは人里を強襲する。人魔を払うことこそ、国境警備隊に課せられた使命だ。
兵士の一人が瞠目した。漆黒の目鼻立ちが曖昧なくぼんだ顔を持つ人の群れ、いやもう人と呼べないかもしれない。狂気を秘めた異形の悪魔だ。人魔は総勢20匹は超える。連中のかかげた槍が怪しく光る。命を欲しているのだ。
司令官は唇を怒らせて、切り札の名を叫んだ。
「タカユキ!」
隆行は指揮官の声に触発されて進み出た。脇田家の大黒柱だ。
「ヤツらに馬鹿めといってやれ」
「やってみましょう」
隆行は武器を捨てて人魔の群れの前に立つ。腕をぶんと振り上げ、V字をイメージしながらゴリラの王者を作り出す。腕はダブルバイセップスを描いた。
「ふぉうっ、ふぉうっ。ふぉうっ、ふぉうっ。ふぉうっ、ふぉうっ」
威嚇しながら声を響かせた。怪しい声が森の空気を揺さぶる。この場で撃退できなければ部隊は危うい、なんとしても討ち払わねばならぬ。隆行の鬼気迫る威嚇をじっと見届けた人魔たちはなんの反応も示さず数分の後、示し合わせたようにその場を去った。
国境警備隊が緊張から解き放たれて歓喜の声を上げた。
「すげえよ、タカユキさん!」
「さすがタカユキさんだ」
仲間は心底嬉しそうに尊愛の眼差しを向ける。指揮官までが感慨深い表情を浮かべていた。
「タカユキ、素晴らしい働きであったぞ」
「恐れ入ります」
隆行は粛々と頭を下げたが笑顔はない。頭に渦巻くのは自身の置かれた境遇への戸惑いだ。
自身は本来このような場所にいるべき人間ではないのだ。戸惑いが汗となって額を滑り落ちる。悔しく唇を引き結び怒りを噛みしめる。
(オレは、……オレは一体何をやっている!)
隆行の悔恨に答える者はない。大事な家族も今は遠い街で静かに寝ているころだろう。そう思うと家族が恋しくて、設計士の仕事が恋しくて仕方がなかった。森の警備は静かに継続する。その後、隆行の戦いは夜半まで続いた。
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