第2話 男子トイレのドライバー達

 間もなく始まるF1のシーズン最終戦、アブダビGPグランプリの決勝レースを前に、セナはいつもの儀式を行っていた。

「今日こそ……今日こそはポイントを獲る……!」

 蚊の羽音にすらかき消されそうな弱々しい声で日本語を呟きながら、セナは男子便所の個室でこうべを垂れる。閉じた便器の蓋に直接腰を下ろし、黄色いヘルメットを膝の上に乗せ、体全体で覆い被さるようにそれを抱きかかえていた。

 小学校3年生の決意から13年後、セナは念願叶ってF1フォーミュラワンドライバーとなっていた。今シーズンはチームのテストドライバーという地位に甘んじていたが、正ドライバーの一人が成績不振により解雇されたため、残り4レースというタイミングで急遽F1のステアリングを握ることになったのだ。

「よしっ!」

 弱い自分はここに置いていくんだと、セナは大声で気合いを入れた。

 儀式の仕上げに、肩から首回りにかけて装着するHANSハンズ――頭部前傾抑制装置の位置を調え、ヘルメットを被り、様々なスポンサーが描かれたレーシングスーツの前ファスナーをきっちり閉める。

 セナが戦闘態勢を調えトイレの個室から出た丁度そのとき、全く同じデザインのレーシングスーツを身に纏った幼馴染みがトイレの中に入ってきた。

「セナ」

「ジェシー」

 彼もまた、セナと同じF1ドライバーになっていた。ただしデビューしたのは去年のシーズンからで、チームのエースドライバーとして40戦のキャリアを持っている。今シーズンは4位に入賞するなど、若手の中では最も活躍していた。

「お前、またここに籠もってたのか。その癖はいい加減直した方がいいぞ」

「悪癖だというのは分かっている。だけど、ここにいると不思議と自分の中にある弱い部分が消えて無くなる気がするんだ」

「そんなもんかね……。ところで、今日のレースで1ポイントも取れなかったらお前はクビだと聞いたぞ」

「うん、チーム代表から直接宣告されたよ。正直怖い。もうF1で走れなくなるんじゃないか、僕の尊敬するロンバルディを越えられなくなるんじゃないかって。まだ何も達成していないのに」

「それだけか?」

「え?」

「……いや、別に。まぁ、3レース走って累計獲得ポイントが0じゃ仕方がない。レース中は助けてやることは出来ないし、頑張れとしか言いようがないな」

「分かってるよ」

 そう言ってセナがトイレを出て行こうとすると、ジェシーが呼び止めた。

「なぁ、セナ」

「なに?」

 ジェシーは少し考え込むような素振りを見せつつ、こう言った。

「なんでもない」

「そう。じゃぁ、レースで」

 なんかいつものジェシーじゃないなと思いつつ、セナは男子トイレの外へ出た。

 スターティンググリッドについているマシンに向かって歩いていると、セナの担当エンジニアであるエドがピットウォールからやって来て、英語で話しかけてきた。彼はこの道20年以上のキャリアを持つベテランである。

「あんたはどんな格好をしていても絵になるな」

 その様子を、国際中継のテレビカメラが追いかけてくる。セナはテレビカメラに向かって手を振りながら歩みを進めた。

「それはどうも」

「ここにグリッドガールがいれば申し分ないのによ。華が無いぜ、まったく」

「グリッドガール?」

「なんだ、あんた知らないのかよ。グリッドガールってのはな、ドライバーの名前やカーナンバーが書かれたボードを持ってスターティンググリッドに立ってた女の子とたちのことさ。時代にそぐわないって、確か2018年に廃止されたんだっけ」

「女性視聴者への配慮でしょ」

「主催者としては、これ以上セクハラ問題を起こされたくないって言うのが本音だろうよ。おかげで周りはむさ苦しい連中ばかりだ。見てみろよ」

 セナは周囲に視線を巡らせた。

 ホームストレートに整然と並んでいる20台のF1マシン。それに群がる各チームのエンジニア達。レース開催側の関係者もちらほらいるが、確かに自分の目に映るのは男ばかりで、女性の姿は1つもない。

「そのむさ苦しい連中っていうのに、僕も含まれてるのか?」

「さーてね。君のルックスは万人受けすると思ってるが――おっと、やばい奴がこっちに来るぞ」

 エドが指差した方へセナが振り返ると、いけ好かない人物がこちらへ向かってくることに気がついた。

 セナと同様にヘルメットを被っており、レーシングスーツを着ているため中肉中背くらいしか身体的特徴は分からない。しかし、ヘルメットやスーツに描かれているロゴを見なくとも、間違いなく自分と同じルーキードライバーのアランであることがセナには分かった。

「おい、セナ! 今日こそお前をぶっ潰す!」

「それはこっちの台詞だ」

 セナとアランは、F1の下位カテゴリーであるF2ではチームメイトだったライバルだ。お互いの癖を知り尽くし、幾度となく激しいバトルを繰り広げた因縁の相手である。

「俺はお前に負けるのが心底嫌なんだ。顔を見ると本当に腹が立つ!」

「僕だって嫌だ」

「こんな奴がいるチームとコンストラクターズポイントを争っているなんて、最悪だぜ」

「それはこっちの台詞だ」

「間違っても俺の前を走るんじゃねーぞ! お前のケツなんて追いたくないからな!」

 そう吐き捨てると、アランは自分のマシンの元へ去って行った。

「やれやれ。どうせ奴は、同じルーキードライバーなのに自分よりもセナが注目されてるからひがんでるだけさ」

「だといいけど。ところでコンストラクターズポイントだけど、あのチームと何ポイント差だっけ?」

「2ポイントのビハインドだ」

 コンストラクターズポイント――チームメイト2人のドライバーズポイントを合計したチームの成績――によって、主催者からシーズン終了後に配分される賞金の桁が変わってくる。資金力の弱い中堅チームにとってこの賞金は非常に重要だ。当然、負けるわけにはいかないとセナは思った。

「必ず逆転するぞ」

「あぁ、任せてくれ」

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