第2話 ②
唯に声をかけられないでいるうちに式は閉会した。式の間や出棺の際も唯の姿を常にとらえていたが、堅固たる障壁を感じ、近寄ることはできなかった。
失意のままマンションに帰った雅彦は、軽い昼食を取り、ラミーシャツとジーンズに着替え、再び外出した。最寄りの停留所からバスを十五分ほど乗ってたどり着いたのは、芝生や疎林を有する広い公園だった。まさしく都会のオアシスである。
小鳥のさえずりを耳にしながら公園に入ると、家族連れやカップル、ジョギングをする人たちの姿があちこちに見られた。
公園に入って五十メートルも歩いただろうか。アスファルトの歩道の端に据えてあるベンチに、薄手のジャケットにスラックス、という姿の男を認め、雅彦は近づく。
気づいたのか、その男、有野が顔を向けた。
「大谷、呼び出してすまなかったな」
「かまわないよ。それより、待ったか?」
「そうでもない。五分くらい前に着いたばかりだ」
有野は答えて肩をすくめた。
「そうか」と返し、雅彦は有野の隣に腰を下ろした。
「それにしても」有野は言った。「藤田さんはどうして殺されてしまったんだろうな。明るくてかわいい子だったのに」
午後の日差しの中で、その静かな声が雅彦の胸に染みた。
「犯人が誰かも、わからないんだろう?」
尋ねた雅彦は、足元の小さな雑草を見つめた。アスファルトの亀裂から芽吹いた雑草である。こんな小さな草が力強く生きているのに、早苗の命はあっけなく奪われてしまったのだ。たとえ犯人が逮捕されても、早苗の笑顔は二度と見られない。それでも雅彦は、犯人に罪を償わせたかった。
有野から事件を知らせる電話があったあの日の朝、藤田早苗は血まみれで路上に倒れているところを発見された。その現場は、彼女が住んでいたアパートから五百メートルほど離れた商店街だ。新聞配達員が第一発見者である。早苗はすでに死亡しており、首や背中など数カ所に刺し傷があった。死因は失血死だった。無論、警察は動いている。だが、雅彦の知る限り、捜査に進展はない。
「それがな……」
言いさした有野が雅彦に顔を向けた。
雅彦も有野に顔を向ける。
「どうしたんだ?」
「口論している現場を目撃したのは会社帰りの女性だったそうだが、その女性の証言によると、相手は、若い男だったらしい」
「口論……って、相手が誰なのか、わからないのか?」
「口論している現場を目撃したのは会社帰りの男性だったそうだが、その男性の証言によると、相手は、若い男だったらしい」
「若い男……」
少なくとも雅彦には、それだけでは有力な手がかりにはなりそうもない、と思えた。それどころか、自分が重要参考人にされる材料が揃った気がしてならない。
「もう一つ、不可解なことがあるんだ」有野は続けた。「まだ報道はされていない情報なんだけど、大谷が知っているという男……藤田さんと同じ職場の金子信也という男の行方が、犯行があったとされる日の夜からわからないらしい」
「金子さんの行方が――」
雅彦は声を詰まらせた。今になって思えば、通夜にも告別式にも金子の姿はなかった。
「大谷が教えてくれたあの話……石原真央の話の中では、金子信也は藤田さんにとって職場の先輩、ということだったな」
「ああ」と雅彦は頷いた。
雅彦は告別式が開式される直前に、石原真央の件を有野に伝えておいた。家電量販店の前で早苗や唯、金子らに会ったときのこと、そして、その後のいきさつなどである。もっとも、ナイフを握った右手が赤黒く膨れ上がる、という情景が脳裏に焼きついていることについては伝えていない。唯や早苗にもその件については話していないが、いかんせん、口にするのがはばかれるのだ。いずれにしても有野は、雅彦の「不可解な記憶にまつわる話」を、葬祭場のロビーの片隅で首を傾げながらも受け入れてくれたのだった。
「実はな」有野が眉を寄せた。「金子は……藤田さんの恋人でもあるんだよ」
「恋人だって?」雅彦は瞠目した。「まさか、そんな」
金子は早苗の前で唯に迫っていたではないか。早苗の金子への接し方も恋人に対するものではなかったはずだ。
「でも」ふと、目の前の疑問に気づき、雅彦は問う。「どうして有野がそんなことを知っているんだ? それに……金子さんが行方不明になったこととか、報道されていない情報まで知っているなんて」
「藤田さんの勤めていた会社に、おれの高校生時代の先輩がいるんだ。野球部で一緒だった先輩なんだよ。後輩の面倒見がよくて……まあ、それはどうでもいいか。その先輩、藤田さんとは別の職場なんだが、社員たちの事情に通じていてな」
「そういうことか」
得心がいき、小さく頷いた。
「その先輩」有野は言った。「通夜にも告別式にも参列しなかったみたいだけど、さっき、電話で話したんだよ。そうしたら、大谷が人違いしたっていうあの子……沢口唯という人のことも知っているって。そして、金子は藤田さんにとって職場の先輩であると同事に恋人でもある、ということも教えてくれた」
「じゃあ……ほかに何か新しい情報とか、聞けたのか?」
雅彦は尋ねた。
「いいや。大谷から聞いた話とさほど変わらないよ」申し訳なさそうに言った有野は、さらに続ける。「ところで気になったんだけどさ、大谷の話によると、藤田さんと金子はただの職場の仲間……それ以上でもそれ以下でもなかったみたいだな」
「少なくとも、恋人同士っていう感じではなかったよ」
想起してみるが、やはり、早苗と金子、二人の間にそれと思われるやり取りは一切なかった。唯さえもそんな二人に疑念を抱いているふうではなかったではないか。
「なんだろうな」有野は首をひねった。「先輩はうそをつくような人じゃないし」
「仮に藤田さんと金子さんが恋人同士だったとして、二人の間に痴話げんかがあった、という可能性はあるかもな。金子さん、沢口さんにしつこくしていたから」
雅彦が言うと、有野は頷いた。
「つまり、金子が怪しい……ってわけだ。大谷もそう思うんだろう?」
「状況的にはそう思わざるをえないよ。でも、真実はまだわからない。金子さんが行方をくらましているんではな」
「まあ、そうだな。ただ……」
と言いさした有野を、雅彦は促す。
「ただ?」
「沢口さんなら、何か知っているかもしれない。金子とは同じ職場だろう? それに沢口さんは、藤田さんとは仲がよかったはずだから」
「有野の先輩も言っていたのか? 藤田さんと沢口さんの仲がよかった、って」
「そう言っていたよ。だから、大谷から沢口さんに訊いてみてはどうだろう。藤田さんと金子の間に何があったのか」
「訊くだけ無駄だよ」
そう答えて首を横に振った。
「どうして?」
「間違いなく、おれは沢口さんに避けられている。もう何も話してくれないだろう」
「葬祭場で沢口さんの様子が変だったのは、そういうことなのか?」
雅彦は「そうだよ」と首肯した。唯から返事がなかったことも、避けられているうえでの対応ならば腑に落ちる。
「どのみち」雅彦は言った。「おれが訊かなくても、沢口さんは知っていることを警察に話しているはずだ」
「そうだろうけど、大谷は平気なのか?」
「平気って?」
思わず眉をひそめた。
「友達が殺されたんだぞ。それも、刃物で何カ所も刺されてさ。成り行きを黙って見ているなんて、おれにはできない」
興味半分でないのは確かだろう。だが雅彦は、そのまっすぐすぎる眼差しに危惧を抱いた。有野は早苗と同様、何にでも熱くなる嫌いがあるのだ。それは大学生時代から変わっていない。
「有野、少し落ち着けよ」
「落ち着いていられるほうがどうかしているよ」
有野は吐き捨てるように言うと、目の前の歩道を見つめた。
――落ち着いていられるだと?
無理にでも押さえているのだ。それを伝えられず、雅彦も歩道を見つめた。
カーテンを開けると内房の海原が目に飛び込んできた。午前の日差しに輝く凪の海を大小の船舶が行き交っている。正面の彼方に三浦半島の山並みがなだらかに広がり、右手の奥には富士山が悠然とそびえていた。
およそ半年ぶりの自分の部屋は、小ぎれいなままだった。机も書棚も以前の状態を保っている。
押し入れを開けて腰を下ろした雅彦は、下段の奥から大きめのクリアボックスを引きずり出し、そのふたを開けた。すし詰め状態となっている中身は書類や書籍などだ。それらを丁寧に取り出し、畳の上に積み上げていく。そして、小学校から大学に至るまでの卒業アルバムを別の山にすると、それらの一冊ずつを念入りに確認していった。
作業は十分ほどで終了した。やはり、石原真央とおぼしき姿はどこにも見当たらなかった。名簿があればよりいっそう納得できたに違いない。個人情報保護が、今は煩わしく感じられる。
「お茶が入っているよ。何やってんの?」
一階から声が聞こえた。
「なんでもない。すぐに済むよ」
そう答え、散らかしたものを急いで元のとおりに片づけた。
二階から一階に下りて居間に入ると、母の
「まったく、しばらく顔を見せないと思ったら、突然帰ってくるし」
英美はそうこぼし、軽くため息をついた。やせぎすの顔に小じわが増えたような気もするが、四十八歳ならば年相応だろう。ショートヘアもその小じわにうまく調和している。
「母さんのスマホに電話したじゃないか」
反駁しつつ、英美の向かいであぐらをかいた。
「電話をくれたのは、家に着く五分前だったでしょう。土曜日だからって、あたしが家にいるとは限らないんだよ。買い物に出かけるときがあれば、パートにもかかわらず休日出勤になるときだってあるんだし。前もって連絡できないほどの急ぎの用事があって帰省した、とでもいうのかしら?」
「うん……そんな感じ」
急いでいた、というよりは、うっかりして連絡を入れるのが遅れてしまっただけだ。それはともかく、石原真央の話など伝えるつもりはない。帰省の理由は曖昧にしておくのが無難だろう。
「ま、言いたくないんなら、別にそれでもいいけどね」問うてきた割には、拘泥する様子がなかった。「でも、早く連絡してくれたら駅まで迎えに行ったんだよ。古い軽自動車だけど、まだまだ元気に走れるんだからさ」
そこで話を区切った英美は、そそくさと茶をすすった。
「ああ……そうか」雅彦は小刻みにうなずいた。「それで駅からうちまでは、ペーパードライバーのおれが練習がてらハンドルを握る、とかね」
「ちょっと、やめてよね。あれでも通勤や買い物に必要な車なんだよ。壊されるわけにはいかないの」
雅彦は冗談のつもりで言ったのだが、どうやら英美は本気にしたらしい。
「はいはい。とにかく、連絡は早めにするよ」
早々の降参は、口ではかなわない、ということを心得ていればこそだ。
ふと、英美の表情に影が差した。
「それにしても……藤田さんっていう子、かわいそうだったわね」
しんみりと言った英美が、湯飲み茶碗を座卓に置いた。
「ああ」雅彦はうつむいた。「ひどすぎるよな」
「藤田さんとの面識はないけど、雅彦のお友達なら、きっといい人だったのね。ニュースで映された写真を見たら、とてもきれいな人だったわ」
「そうさ。美人で友達思いの、いい子だったよ」
気ぜわしくおせっかい焼きの早苗は、ときにはうっとうしい存在でもあった。しかし、それが彼女の魅力だったのも、紛れもない事実だ。改めて、大切な友人を失った悲しみと悔しさに打ちひしがれる。
「あれから一週間以上も経つけど、捜査は進展していないのかしら?」
「どうだろうな。捜査が進展しているかどうかなんて、おれにはわからないよ。仮に犯人が逮捕されたとしても、藤田さんは戻ってこないんだ」
言いきって、雅彦は顔を上げた。
「そうだけど」憂いの表情で英美は雅彦を見つめる。「あたしが心配しているのは、雅彦のことよ」
「おれのこと……なんで?」
得心がいかず、目をしばたたいた。
「藤田さんが殺された原因が怨恨だとしたら、雅彦だって巻き込まれるかもしれないじゃないの。藤田さんは友達思いのいい人だったんでしょう? なら、お友達はたくさんいたはずだもの。犯人と雅彦との繫がりはない、とは言いきれないわ」
「なんだか、犯人はおれの大学生時代の友達だ、って言っているみたいだな」
「可能性はあるでしょう」
「ある……のかな?」
英美の前ではあえて口にしないが、犯人は金子である、と決めつけていた。ほかの線は頭の隅にもなかったのである。友人たちを疑うなど言語道断だ。
「雅彦は、何か心当たりとか、ないの?」
気がかりなのだろう。英美は執拗だった。
「うん、ないよ」
「ならいいけどさ。とにかく、用心に越したことはないわよ」
英美に見据えられ、雅彦は背筋を伸ばした。
確かに、はたから見れば危うい状況下にあるのかもしれない。雅彦が巻き込まれないとは限らないのだ。仮に金子が犯人だとすれば、名刺交換までしているのだから、雅彦はすでに関係者である。
「そうだね、用心するよ。それにおれにもしものことがあったら、母さんが独りぼっちになってしまうもんな」
雅彦がそう言うと、英美は苦笑を浮かべた。
「今さら何を言っているの。雅彦が東京の学生寮に入ったあの日から、ずっとあたしは独りぼっちだよ。寂しいのは慣れている。雅彦の身が心配なだけなの」
「そうか……ありがとう」
目が泳いでしまった。感謝の意を言葉にするのはたやすいが、照れくささを隠すことは困難である。
「父さんがいないぶん、おれがしっかりしないとな」
雅彦はそう付け加えて自分の湯飲み茶碗を持ち、冷めかけた茶を一口飲んだ。
自分にできることは何か、何をすべきなのか。
市井の人間にできることといえば、素直に傍観するだけではないのか。
無論、母や自分にかかるリスクは回避しなくてはならない。
思案に暮れたまま改札を出た雅彦は、スマートフォンの電源を切っていたことを思い出した。人混みを避けてコンコースの端に移動し、壁を背にして立ち止まる。
チノパンのポケットから取り出したスマートフォンの電源を入れ、有野からの留守電が入っているのを知った。早速、再生してみる。
「今、群馬県のヒモリザトというところにいる。四方を山に囲まれた街だ。ここから西の山へ入るとヒビイシという土地があるんだけど、ヒモリザトで一泊して、明日、そこへ行ってみる。留守電ってなんだか拍子抜けするな。次からはメッセージにするかな」
一週間ぶりに聞いた有野の声だった。
はたして有野に山歩きの趣味などあったのか、雅彦にはわからなかった。それに「ヒモリザト」や「ヒビイシ」という地名など、聞いたことがない。
胸騒ぎがした。
雅彦はすぐに有野に電話をかけた。
呼び出しは鳴らずに音声案内が流れた。圏外にいるか電源が切れているらしい。
ふと思い立ち、「ヒモリザト」と「ヒビイシ」という地名のそれぞれをインターネットで検索してみる。「ヒモリザト」に関しては、
伝言の件は了解した、という旨をメッセージで送った雅彦は、スマートフォンをチノパンのポケットに戻し、衝動的に歩き出した。
人混みを縫うのがいつになく難渋だった。
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