第2話 ①

 告別式の空はどこまでも青かった。早苗の屈託のない笑顔を彷彿とさせる、まぶしい空だ。

 タクシーで葬祭場に乗りつけたフォーマルスーツ姿の雅彦は、すぐに記帳を済ませ、ロビー内を見渡した。百は下らぬだろう参列者の中から大学の同期の面々を見つけ出し、そちらへと移動する。腕時計を見れば、開式の二十分前だった。土曜日の午前ということもあり、前日の通夜に参列できなかった顔ぶれもあった。同期の参列者は三十人ほどだ。

 同期の者たちもそれ以外の参列者たちも、皆、暗澹とした表情をあらわにしていた。すすり泣く声がロビーのあちこちから聞こえる。「なんで殺されなくちゃならないのよ」という年配の女のものらしき嗚咽混じりの囁きも聞こえた。

 通夜での雅彦は、憔悴しきった遺族があまりにも哀れで、彼らの誰とも目を合わせることができなかった。特に早苗の両親と高校生の妹――残された家族三人の顔は、できる限り視野に入れないようにしていた。喪主である父親の挨拶の折りも、その挨拶の言葉さえろくに聞いていなかった。もっとも、「独り暮らしをしていた早苗でしたが、無残な姿となって発見された日の二日前、日曜日に、わたしたち夫婦や早苗の妹とともにレストランで夕食を楽しみました。早苗の笑顔を見たのは、あの日曜日の夜が最後でした」という箇所だけは忘れられない。

 そんな通夜から一夜が経ち、雅彦はどうにか気持ちを落ち着けることができた。昨夜は同期たちの声を聞くのも苦痛だったが、今日は自分から同期たちに声をかけた。

 同期の男女たちと重苦しい挨拶を交わしていた雅彦は、不意に背後から「大谷」と声をかけられた。

 振り向くと、大柄な男が立っていた。参列者という出で立ちの彼は、雅彦より頭一つぶん上背がある。有野だった。

「有野か……仕事は大丈夫なのか?」

 有野は通夜には参列できなかった。急を要する仕事が入ったとのことだった。昨夜の電話において、有野は通夜に出られないことをかなり悔しがっていた。

「ゆうべのうちに済ませたよ。それより大谷、ちょっといいか?」

 エントランスのほうへと雅彦を目で促した有野は、同期たちに会釈し、先に立って歩き出した。事情を察した雅彦は有野の背中に続く。

 参列者たちを縫って進んだ二人はエントランス手前の壁際で足を止めた。

「大谷に伝えていないことがあるんだ」

 有野が人目をはばかるように小声で言った。そして、「電話やメッセージでは伝えられなかったんだ」と付け加えた。

「なんだ?」

 問い返す雅彦も声を潜めた。

「実は、先週の金曜日、仕事帰りに藤田さんから電話があったんだ。手間は取らせないからすぐに会ってほしい、ってな」

「会ったのか?」

「ああ。残業が終わって、八時過ぎだったな。おれの勤め先の近くで会ったんだ。駅の構内での立ち話だったけど。で、藤田さんの用件っていうのが、大谷……おまえにかかわることだったんだよ」

 深刻そうな口調だった。雅彦は胃が重くなるのを感じる。

「おれにかかわること……」

「なあ、大谷」有野は眉を寄せ、そして問う。「石原真央、っていう女の人を、知っているのか?」

 雅彦は息を吞んだ。

 もう一度、「知っているのか?」と静かに問われた。

「ああ、知っている……いや、知らないと言うべきなのかな」

 即答できる問題ではない。ため息を落とし、そっとうつむく。

「大谷……どういうことだよ?」

 ごまかしは利かないだろう。雅彦は顔を上げた。

「答えるけど……その前に、藤田さんが有野に何を言ったのか、教えてくれ」

「わかった」有野は頷いた。「藤田さんは大谷の交友関係を探っていたんだ。大谷とおれとの仲を知っているから、それでおれを呼び出したんだろうな。そして藤田さんは、大谷の友人か知り合い、もしくは過去に付き合ったことのある女性に、石原真央という人はいないか、っておれに尋ねたんだ。でも、そんな名前の女の人なんて知らないしさ。結局、藤田さんの力にはなれなかった」

「そうか」

 つぶやいて、雅彦は口を結んだ。

 早苗は諦めていなかったのだ。あの電話のあとも石原真央の存在の有無に固執していた、ということである。

「そして」有野は続けた。「自分が石原真央について探っていることは、大谷にはもちろん、ほかの誰にも言わないでほしい……って頼まれた」

 固執はしていても「その話題を忌避する雅彦の気持ち」を酌んだ可能性はある。

「というより、藤田さんは有野以外の人には訊いていなかったのかな?」

 この話が拡散してほしくない、という本音はある。しかしその本音とは別に、事件の真相を解明するための糸口として、調査対象とされた範囲を知りたかった。

「どうだろう?」有野は首をひねった。「大学の同期でほかに大谷の交友関係に詳しい人はいないか、とも尋ねられたけど、このおれが一番詳しいはずだよ、って答えておいたからな。……今になって思えば厚かましい答えだったけど、藤田さんは納得していたよ。ほかの誰にも言わないでほしい、と頼むくらいだし、この話を広めるつもりはなかったんだろう。当然、おれだって誰にも言っていない。これを人に言うのは、大谷に言った今回が初めてなんだ。ただな、藤田さんが大学の同期以外にも尋ねたのかどうかは、すまないが確認していない」

 調査対象は不明、というわけだが、有野の心遣いには感謝したい。

「いいんだよ。ありがとう。でも、有野はこのおれを疑っていないのか? 事件前に藤田さんがおれの交友関係を探っていただなんて、おれが事件にかかわっているかどうか、おまえに怪しく思われてもしかたないじゃないか」

 仮に警察が早苗のその行動を把握したとすれば、雅彦は重要参考人として事情を訊かれる可能性があるだろう。

 そんな危惧を払拭するかのごとく、有野は首を横に振った。

「微塵も疑っていないよ。大谷の人間性は誰よりも知っているつもりだ」

 重ねて感謝するしかない。涙腺が緩みそうになるのをぐっとこらえ、口を開く。

「次はおれの番だな。石原真央という女性のことについて答えるよ」

「ああ、頼む」

 頷いた有野が、その直後、顔をこわばらせた。

「有野?」

 不審に思いつつ、雅彦は有野の視線をたどった。

 タイトスカートのタイトスカートのフォーマルスーツを着用した沢口唯が、エントランスからややホール寄りに位置する壁際に立っていた。悲壮な面持ちをうつむかせており、こちらに気づいている様子はない。

「あの人だ」有野は小声で訴えた。「彼女が石原真央だよ」

「おい有野、あの人は――」

「間違いない」有野は雅彦の言葉を待たずに言った。「藤田さんが見せてくれた写真に、彼女が写っていたんだ」

「写真?」

「ああ。スマホで画像を見せてくれたんだよ。この子が石原真央だ、って言ってな。ちゃんと目に焼きつけたから、見間違うはずがない」

「有野、違うんだ。彼女は石原真央じゃない。別人だ」

 否定したが、事情を伝えるための言葉は、まだ用意できていない。

 有野が雅彦を横目で見る。

「別人? でも、藤田さんが見せてくれた写真の女の人は、確かにあの人だぞ。髪型だって、同じポニーテールだ。間違いないよ」

 そうまで言われた雅彦は、目の先にいる女が沢口唯なのか石原真央なのか、自信が持てなくなってしまった。だがそれもつかの間のことだ。かぶりを振り、我を取り戻す。

「いいや。彼女は藤田さんの仕事仲間……職場の後輩なんだ。そもそもの発端は、おれが彼女を石原真央と勘違いしたことにあるんだよ」

「意味がわからないぞ」

 小声ではあるが、いらだたしさが伝わってきた。

「有野が見たという写真の女性は、おそらく石原真央じゃないよ。そこにいる彼女を写したものだと思う。あとで説明する。ちょっと待っていてくれ」

 有野をその場に残し、雅彦は唯に近づいた。

「沢口さん」

 隣に立ってそっと声をかけると、唯は虚を突かれたように肩をすくめ、こちらに顔を向けた。フォーマルバッグを持つ彼女の手が、わずかに震えている。

「大谷さん」

 小さな声が漏れた。

「大変なことになったね。こんなとき、なんと言えばいいのか」

 近くの参列者に聞かれないよう、留意しつつ口にした。

「ええ、わたしも言葉になりません」

 そう返した唯は、再びうつむいた。

「何度も沢口さんに電話したんだよ。メッセージも送ったんだ。でも電話は繫がらないし、メッセージも……既読はあったけど返事はなかった。だから通夜で声をかけようと思ったのに、昨日は君の姿を見つけることができなかった」

 とりあえず訴えたが、問い詰めるつもりはなかった。

 うつむいたまま、唯は口を開く。

「すみませんでした。藤田さんの事件があってから、いろいろと慌ただしくなってしまって。職場に警察が来たり、藤田さんの担当していた仕事を整理したり。大谷さんに連絡しなくちゃ、って思っていたんですけれど、どうしても気持ちに余裕が持てなくて。それにわたし、動揺しすぎて体調を崩しちゃって……それで昨日のお通夜に参列できなかったんです」

「そうだったのか」

「はい」

 唯は頷いた。

「おれのほうこそすまなかった。沢口さんの事情を考えずに勝手なことを口走ってしまって。で……体調のほうは、いいのかい?」

 今さら遅い、と思いつつ、慰撫せずにいられなかった。

「なんとか大丈夫です。それより……」唯は顔を上げて雅彦を見た。「もう、わたしにはかかわらないでください」

 突然の申し出に雅彦は逡巡する。

「どうして?」

「このままでは大谷さんに迷惑をかけることになります。わたしのほうから、会いたい、なんて言っておいて、本当に申し訳ありません」

 言葉そのものより、冷徹さを湛えた瞳に威圧された。

 それでも自尊心は捨てきれず、雅彦は問う。

「おれに迷惑がかかる……って、どんな?」

「お願いです。もう何も訊かないでください」

 そして唯は背を向け、ロビーの奥へと歩き出した。

 この厳粛な場で引き留めることは、さすがにためらわれた。唇を嚙み締め、ただ立ち尽くす。

 唯の後ろ姿が参列者たちの中に消えた。

 見計らったかのように、有野が雅彦の隣に立つ。

「話は済んだのか?」

「ああ」

 それ以外の答えは見つからなかった。

 雅彦の頭の中は混沌としていた。状況がまるでつかめない。

 ――まさか、この殺人事件に沢口さんが関与しているのか? それとも、関与しているのは石原真央なのか?

 憶測することしかできない自分が、たまらなく歯がゆかった。

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