20. 朝練


 姿形が変わっても、人の習慣というものはそう簡単に変わらないらしい。


 体は全く疲れていなくても、色々な出来事があったせいで精神的に疲れ切っていた俺は、あの後すぐに眠ることが出来た。


 特にやるべき予定も、クズ親父の帰りにビクビクと震えることもなく、ようやく自由になってゆっくり眠れると思っていたが、目が覚めたのは朝日が昇ったばかりの早朝。まだ眠ることが出来ると二度寝に入っても、完全に目が覚めてしまった。



  ──コンコンッ。


 特に何かをする気にならず、昨日のことで未だにもやもやとした感情を抱いたまま布団の暖かさを感じていた時、俺が厄介になることになった部屋の扉が控えめに叩かれた。



「アッシュさん、おはようございます」 


 その声は、昨日知り合いになったこの宿の看板娘、アンナだ。

 こんな朝早くから起きて働いているのかと驚きつつ、何の用事があって来たのかと気になり、返事をしてから扉を開ける。


「おはよう、アンナ。早いね」


「おはようございます。昨日はお早めの就寝だったようですが、よく眠れましたか?」


「久しぶりにぐっすり眠れたよ。ありがとう。……それで、どうしたの?」


「リーゼちゃんが、アッシュさんに用があると言って来ていますよ」


「……リーゼが?」


 そういえば昨日、訓練に誘うと言われたような気がする。


「彼女はどこに?」


「下で待ってもらっています。準備が出来たら行ってあげてくださいね。……彼女、かなり楽しみにしているみたいですから!」


 わかったと頷くより早く、アンナは急ぎ足で下に降りて行った。

 朝は色々とやることがあるのだろう。


「……にしても、リーゼも起きるのが早いな」


 日の出から少し時間が経っていると言っても、まだ外は薄暗いし、人通りもほとんどない。窓から見える商業区もようやく、ポツリポツリと店を開け始めたところだ。


 いつも彼女はこのような時間から朝練をしているのか、それとも今日だけ張り切って早起きしたのか…………それは本人に聞けばいいだろう。



「おはよう、リーゼ」


 階段を下ると、広間の方に鮮やかな赤色が見えた。

 昨日の鎧姿とは違って今は動きやすそうな軽装を着ているが、とてもわかりやすい特徴的な髪色だ。すぐにリーゼロッテだとわかった。


「おはよう、アッシュ。昨日ぶりだな」


 俺の方から声をかけると、リーゼロッテはすぐにこちらを振り向き、片手を挙げて挨拶を返してくれた。


「昨日言っていた朝練に誘おうかと思って来たのだが……急だっただろうか?」


 と、申し訳さなそうに眉を寄せるリーゼロッテ。

 気にしなくて良いよと、なるべく彼女が気を落とさないように笑いかける。


「俺もちょうど起きて暇していたところだし、むしろ本当に誘いに来てくれて嬉しい。いつもこの時間に起きてやっているのか?」


「あ、ああ。最初に走り込みもするから、人の少ない時間帯にやった方が、色々と都合が良いのだ。昨日のうちにそのことも言っておくべきだったな」


 走り込みの点で納得がいった。

 確かにそれをやるならば、人通りの少ない今の時間帯にやった方がいいだろう。


「走り込み以外に、朝練は何をするんだ?」


「走り込みの後、我が家の庭で一時間程度の稽古だ。いつも通りにやろうと思っているが、大丈夫だろうか? 体力とか、その……あるようには見えなくてな」


 言葉を選んだのだろうが、普通に直球で言われてしまった。

 ……まぁ、変に遠慮されるよりはまだマシだ。


「大丈夫だ。体力には自信がある」


 胸を叩く。だが、細い体では信じられていないのか、まだ疑うような目だ。


「途中できついと思ったら言うからさ。とりあえず、よろしく頼むよ」




 こうして始まったリーゼロッテとの朝練。


 早朝の走り込みということで、そこまで早く走らないのかと軽く見ていたが、その予想は朝練が始まってすぐに裏切られた。


 全力疾走に近い速度で地を蹴った彼女に、小走りで走り出した俺は置き去りにされる。いやいや待て待てと、声を大きくして抗議の声を上げる。


「ちょ、リーゼ! 速くないか!?」


「ん? そう言われても、これがいつも通りだぞ?」


 この速度が当たり前だと言われた俺は、「ああ、そうですか……」と返した。予想の遥か上を行かれた場合は、難しいことは考えずに「そっかーすげぇなぁー」くらいに捉えておけばいい。


 これはイルシェーラとの会話で身に付けた技だ。


「……まさか、この程度で音を上げるのか?」


 と、ここでリーゼロッテから挑発が飛んできた。


「なんだ、急に笑って……?」


「いや、馬鹿にしているわけではないんだ。気に障ったなら謝る」


 彼女もこのような顔が出来るのかと、少し笑ってしまっただけだ。

 決して、馬鹿にしたわけじゃない。


「むしろ、リーゼのことを気に入った」


「なっ!? き、きき気に入った、って……!」


「さぁ行こう! 俺もまだまだ行けるからさ!」


 肩を叩き、横に並んで走る速度を上げる。

 一瞬、驚いたようにこちらを見つめてきたリーゼロッテだが、すぐに自分も負けじと速力を上げてきた。


 ──面白い。

 少しズルをしているみたいで申し訳ないが、灰人の底力を見せてやろう。


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