5. 第一の試練
「キャァアアアアア!!」
耳をつんざくような悲鳴。
母親らしき女性が、まだ産まれたばかりの赤子を庇うように抱いている。
何かの拍子に服が裂けたのか、背中が丸見えだ。その肌には深い切り傷があって、すぐに治療しなければ痕が残りそうなほどに痛々しい。大丈夫かと手を伸ばす。
「ヒィ──!」
すると女性はその顔に恐怖を浮かべ、後ずさった。
「お願いします! どうか、命だけは……!」
女性は前を向き、懇願するように叫ぶ。
その視線は依然としてこちらに向いている。
──自分の背後に誰か居るのか。
そう思い、振り返った……が、そこには誰もいない。あるのは崩壊しかけた一軒家と、不気味なほどに無人となった街。
女性が助けを乞う、敵らしき影は何も見えない。
「ぁ、ぁぁ……」
もう大丈夫だ。敵は見当たらない。
そう言おうとしたのに、喉から鳴ったのは獣のような低い唸り声。
「来ないで! 化け物!!」
首を傾げる。
女性は今も、こちらを見つめていた。
まるで、恐れている者が目の前に居ると思っているようで────
「…………、…………」
横にある建物のガラス戸。そこに映る化け物を見た。
自分を殺した奴と同じ悪鬼のような見た目をした『灰人』だ。
そいつは女性の正面に立ち、夥しい返り血をその身に浴びていた。
凶器のような長く鋭い爪からはポタポタと赤い水滴が零れ落ち、地面を濡らしている。今にも女性を引き裂こうと、大きな手を伸ばしている化け物は────。
「────ぁ、」
ようやく、全てを理解した。
女性を今にも斬り殺そうとしている灰人は、他でもない自分自身なのだと。
「ぁ、あぁ……!」
膝から崩れ落ちる。
自我を取り戻した瞬間、今までに犯した罪を思い出したのだ。
「ニ、ゲロ……」
「え?」
「早ク、逃ゲロ!!」
辛そうに足を引きずりながら、何度か転びそうになりながら、それでも赤子だけは絶対に離すまいと両腕で必死に抱え、その人は逃げ出した。
「よかっ──ぐっ!」
それを見届けた後、体に激痛が走った。
呼吸という簡単な動作さえも難しく、地面に倒れ伏した。
「はぁはぁ、ぐっ……! ッ、アアアアアアアアアアア!!」
──断末魔に似た叫び。
痛みに耐えるようにゴロゴロとその場を転がり回る。
それを続けること、長い時間が経過した。
もしくは僅か数秒の出来事だったのかもしれない。
それは、とても長い時間のように感じられた。
少し動くだけで体の節々は軋み、穴という穴からは滝のような汗を流していた。
力の入らない体に鞭打ってどうにか立ち上がり、驚愕する。
「……元に、戻ってる?」
灰人となった体は大きく縮み、慣れ親しんだ人間に変化していた。
だが、完全な元通りというわけではない。
母親譲りで黒かった髪も暴力を受け続けた影響で黒ずんだ肌も、全てが白く変色している。
『──ほぅ、まさか本当に戻るとはな』
突如、目の前にイルシェーラが現れた。
何の変哲もなく、瞬きをしたその時に、彼女はそこに立っていた。
「イルシェーラ……!」
『おっと、やめておけ。この私は幽体。どうせその拳は通らぬ』
足元を見ると、彼女の足元は微かに透けていた。
「……、……くそっ!」
滲み溢れた怒りは行き場を失い、代わりに壁を殴った。
『物に当たるのは良くないぞ?』
「誰のせいでこうなっていると……!」
『貴様が私の封印を早く解かないのが悪い。そのような勝負であっただろう?』
イルシェーラの封印を自力で解けば自由になる。
それが出来なければ、灰人となって彼女の命令に従う。
──双方の同意の元、そのような賭けを行った。
「俺は、どのくらい眠っていた?」
『一年と少し……といったところか。案外、時間が掛かったな。もう復活は望めないだろうと思い、私はつい先程まで貴様のことを忘れていたぞ』
一年と少しの間に、自分はどれほどの人を殺しただろうと、自分自身に嫌気が差した。
「……約束は覚えているだろうな」
『ああ、もちろん。貴様は今日から自由だ。人間に溶け込めるよう、体も変化させてやったぞ。私の優しき気遣いに涙し、心から感謝しろ』
「どうせなら、痛くないようにしてほしかったんだけどな」
『面倒臭かったのだ。仕方ないだろう』
面倒だったという理由で激痛を味わうとか、本当に勘弁してほしい。
だが、こうして人間の姿になれたのもイルシェーラのおかげなので、文句を口にするのもまた違う。
「本当に俺は自由になれるのか?」
『それを望んだのは貴様であろう? 安心しろ。もう何の制限も掛けていない』
それを聞いて安心した。
俺はもう罪を犯したが、これから償えばいい。
「随分と素直に受け入れてくれるんだな」
『そういう約束なのでな…………それに、どうせ貴様はすぐ私の元へ戻ってくる。人間として生きていく中で、この世の理を知っていく上で、貴様は必ず私を求める。そうなると決まっているのだ』
「……生憎だが、それは絶対に無い。俺はもう二度とお前の元に戻らない」
『はっ! 生意気な小僧よな』
一年が経った今でも、彼女は変わらない。
人を小馬鹿にした口調と、自分が一番偉いのだという傲慢な態度。
彼女らしいと言えばそうなのだが、それに振り回されている身からすれば癇に障る。
「俺は絶対に戻らない。この一生、人のために生きるんだ」
率直な気持ちを口にして、決意を固いものにした。
イルシェーラの態度は変わらない。口の両端を吊り上げ、楽しそうに笑う。
『貴様はもうすでに自由の身。好きにしろ』
自由を認めてくれている言葉だが、自分の思い通りになると信じて疑わない口調だ。
──見透かされている。
苛立ちを隠さず、イルシェーラを睨みつける。
「俺はお前を許さない。認めない。
──お前の目的、絶対に阻止してみせる」
そう言われるのは予想していなかったのだろう、彼女は一瞬だけ目を丸くさせた。
『くく、くはっ……! あっははははは!!!!』
腹を抱え、彼女は笑った。
宙に浮きながら足をジタバタとさせ、大声を上げる。
『わ、私の目的を阻止する……! くははっ! 使徒でありながら、この私を邪魔するか! これは面白い。今まで生きていた中で、最っ高に面白い!』
何がそこまで面白いのか、俺には理解が出来なかった。
だが、絶対に不可能だと馬鹿にされていることだけはわかった。
『そう睨むな。むしろ喜べ。先程の発言で、貴様の評価は一段階上がったぞ?』
大笑いをして満足したのか、彼女は「こほんっ」と咳払いを一つ。
『……とまぁ、貴様は私の使徒でありながら、私の敵となったわけだな。確認のために聞いておくが、その選択に後悔は無いか?』
「ああ、後悔なんてしない。俺は絶対に」
『──では、卑怯と言うまいな』
何を、と聞く前に間近で野太い咆哮が響いた。
驚いて視線を向ければ、自分の体の二倍はあると思われる体格の化け物が、こちらへ一直線に走ってくるのが見えた。そいつの手には一振りの直剣が握られ、剣身にはびっしりと赤い液体がこびり付いている。
「なっ、灰人……!?」
『敵が目の前に居て見逃すほど、こちらも優しくはないのでな。
──言っておくが、逃げ場は無いぞ?』
不意に大地が轟き、周囲の建物が崩落する。
それは意思を持ったようにこちらへ雪崩れ込み、灰人と俺は瓦礫に囲まれた。
『喜べ、貴様を試してやろう』
彼女がパチンと指を鳴らすと、変化はすぐに起こった。
俺達を孤立させた周りの瓦礫の山に、不自然に火が灯る。
それは次々と勢いを増し、あっという間に炎熱の檻が出来上がった。
『戦うのだ、主人に背いた愚かな灰よ。
運命を否定すると言うのであれば、運命に立ち向かってみせろ』
──さぁ、試練の開始だ!
イルシェーラは狂気に満ちた笑みを深くさせ、高らかに宣言した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます