11. 少女はスラムに踏み入れる


 崩れかけの一軒家。


 薄汚れた壁には大量の羽虫が群がっている。

 地面に飛び散った黄色い液体や、無造作に捨てられて腐ったゴミからは、衛生上よろしくない臭いが漂ってきて、思わず鼻を覆いたくなった。


 道端に座っている人の目は薄暗く、それでも虎視眈々と何かを狙っているようなギラギラとした視線を巡らせている。普通に歩いているだけなのに、値踏みをされているような感覚に陥ってしまう。


 普通に生きている内は絶対に訪れたくない落第者の世界。


 通称『スラム』に、私は足を踏み入れていた。




 …………帰りたい。

 私の気持ちはそれでいっぱいだった。




 ここで右回れをして引き返すことができたら、どれだけ楽だっただろう。

 やろうと思えばできるけれど、目的のためには仕方ない。そうじゃなければ誰がこんな場所に来るものか。


 どんなに馬鹿な貴族でも、スラムには足を踏み入れようとしない。

 だから身を隠したい時には最適だけれど、十歳の体には厳しい。ここに居るだけで健康じゃなくなってくるような気さえしてしまう。



「──おいおい。なんでこんなところにガキが居るんだぁ?」



 落ち込んだ気持ちでスラムの中を歩く私に、粘りつくような男の声が掛けられた。


「おじさん……だぁれ?」


 瞬時にゴンドルを思い出して、殺意が奥底から這い出てくるけれど、それを必死に圧し殺した私は、油断を誘うために『あどけない少女』を演じた。


 我ながらに可愛い声を出せたと思うけれど、残念ながらスラムの人間には効果が無いようだ。


「誰なの? 怖いよ……」


 茶番を演じている間に、周囲の気配を探る。


 目の前で対峙している男とは別に四人。

 後ろの方から徐々に近付いてくるのがわかった。


 どうやら逃がすつもりは無いらしい。


「残念だったなぁ……まぁ、こんな場所に来るお前が悪いんだぜ?」


 ニヤニヤと薄気味悪く笑うその顔が、私を苛々させる。


 一度目でもそうだった。

 なんでスラムに入ると、必ずと言って良いほど『お約束』が待っているのだろうか?



 ──この姿が悪いのかな?



 だとしたらどうしようもない。

 誠に遺憾ながら、二十歳だった時でも年齢を若く間違われるくらいには、私の見た目は幼い。


 お調子者のバッカスに「成長が乏しいんだろ」と言われた時は、マジで殴ろうかと思った。……嘘だ。実は本気で殴った。


「私を、逃してくれないんだよね?」


「当たり前だろうが! こんな上物を逃す手はねぇや!」


 はぁ……と、溜め息を吐き出す。


 周囲に座っていたスラムの人は、危険を察知してこの場を離れている。


 助けてくれよとは思うけれど、こういう場合はそれが正解だ。

 裏世界で生き抜くためには、なるべく面倒事に巻き込まれないようにする『危機察知能力』が必要になる。



「おじさんは私の敵?」


「はぁ? 何言ってやがる」


「ねぇ、どっちなの?」


 この人達は、私の復讐対象ではない。


 復讐の邪魔をしたり、私の敵になったりしないのであれば、必要以上に殺すつもりは無い。

 正直、面倒事を避けられるのなら、それが一番なんだけれど…………。


「ゲヒャヒャッ! 何を言ってやがる。ガキ風情が生意気だなぁオイ!」


 返ってきた答えは、下品な笑いだった。

 目の前の男に釣られて、私を囲んでいる奴らも笑い始める。


 どうでも良いけれど「ゲヒャヒャッ」って笑う人、初めて見た。これは珍しい。


「スラムに一人で来るもんだから馬鹿かと思っていたが、これでも状況が分からねぇとは──本物のカモだぜコイツぁ!」


 あ、今のはイラっとしましたー。


「いいから出すもん出せや。その後は俺達でたっぷり遊んで、飽きたら言い値で売っ払ってやるからよぉ!」


「…………そう。それがおじさんの答えなんだね」


 それなら仕方ない。

 ただでやられる訳にもいかないから、こちらも抵抗してあげよう。




「おじさん達は──私の敵だ」




 一斉に襲いかかって来たおじさん達──もといチンピラ。


「遅いなぁ」


 遅いし隙だらけ。

 見た目だけで相手のことを舐めすぎ。



 だから、簡単に糸に捕まってしまうんだ。



「なっ、う、動けねぇ!」


 強めに絡めたのだから、スラムに留まっている程度のチンピラが動ける訳がない。

 奇怪な格好で止まっているチンピラを見ているのも面白いけれど、あいにく私は急いでいるんだ。


「お、おい待て! やめグギッ!?」


「──ヒィッ!」


 騒ぎ出したチンピラの首を折ると、それを見ていた奴らから悲鳴が上がった。


「やだ……嫌だぁああああああ!」


「助け、助けてくれぇ!」


「……うるさいなぁ」


 締め付けを強くする。

 糸が肌に食い込んで、血が滲む。


 どうにかして逃げようと小刻みに震える姿が、舞台上から操られている人形のようで、とても滑稽に思えてしまうなぁ。



 ──バキッ、という音がした。



 生き残りの四人のうち、誰が発した音なのかはわからない。

 自分達の命が残り少ないということを実感したチンピラは泣き喚き、無駄な足掻きを見せ、股間からは温かい液体を漏らし始める。


「くふふっ、おじさん達、良い顔してるよ?」


「やめ……助けてくれぇ……」


 私をコケにしてくれた男が、顔をしわくちゃにさせながら懇願する。


「アハ、アハハハッ!」


 恐怖心を増幅させるために、わざと上機嫌に笑った。


「やめて? 助けて? 馬っ鹿じゃないの? 助ける訳ないでしょう!?」


「なっ……!」



 ──あぁ、その顔。

 絶望に染まったその表情は、なんて甘美なのだろうか。


 こいつらは本当の復讐対象ではない。

 言わば偶然生まれた、ただの敵だ。


 なのに、こんなに楽しい。

 これがゴンドルだったならば、私は愉悦の快楽に我を失っちゃうかも。



「もっと遊んでいたいけれど、私は急いでいるんだ──じゃあね、おじさん達」


 最初の男の横を通り抜けて、スラムの奥へと歩みを進める。


 少ししてから拳を握ると、後ろの方から断末魔の叫びが聞こえた。

 呆気ない終わりだったけれど、面白かったので良しとしよう。


「さて、と……道はこっちで合っていたかな?」


 迷路のような構造をしているスラムの街を、鼻歌交じりに歩く。


 そんな私を、スラムの住民は奇異な目で見てきたけれど、先程のチンピラのように話しかけようという愚か者は、誰一人として存在しなかった。



 ──強い者には逆らわない。



 スラムの住人に染み付いている意識のようなものだ。

 さっきの雑魚どもと派手にやりあったことで、私がどの程度の実力者なのかはすでに広まっているらしい。


 そういう情報の速さだけは見事だと思うけれど……それなら最初から関わらないでほしいよなぁ。


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