8. 少女は夢を見る




「ノア」


 温もりに包まれた声が聞こえた。


 次に、ぼんやりとした光の中から大きな手が出てきた。

 それはゆっくりと私に迫り、ポンッ、と頭に置かれる。




 ──これは、夢だ。




 これはお母さんの声だ。

 これはお母さんの手だ。



「ノア」


 再び名前を呼ばれた時、世界は色付いていた。


 ──見慣れた光景だ。

 私が十年間生活していた家。家具も料理も、今となっては懐かしさを覚える。


 もう二度と見ることはできないと思っていた。

 今見ているこの映像も、目が覚めればすぐに忘れてしまうのだろう。



「お母さん」


 私の体は、二度目に戻った時よりも小さくなっていた。


 タタタッと小走りに、椅子に座る母親の足に抱きつく。

 顔を上げると、母親の顔はぼんやりと滲んでいて、よく見えなかった。


「ノア……」


 体を抱き上げられ、母親の膝に乗せられた。


「ノアは良い子ね」


 水洗いで荒れた手で頭を撫でられ、そこから温かい気持ちがじんわりと灯る。


 今の私は猫のように目を細めていることだろう。

 そう思うほどの嬉しさが溢れているのを自覚していた。



「私は、良い子じゃないよ」


 気が付けば、私の口からはそんな言葉が出ていた。


 違う。


 言いたいのはそんなことではない。

 そう思っても、一度出てしまった言葉はすぐに止められなかった。


「私のせいで、みんなを不幸にさせちゃった。守りたかったのに守れなかった。私はお母さんの言うような良い子じゃないの……ごめんなさい」


 謝ったところで許されるとは思っていない。


 どんなに後悔したところで、もう皆は生きていない。

 私が守りたかった人達はどこにも居なくて、私に残されているのは──永遠に燃え尽きない復讐心のみ。



「あなたは良い子よ。そして、誰よりも優しい子だわ」


 でも、お母さんはそれを否定した。


「ごめんね」


 何を言われたのかわからなかった。

 見上げると、相変わらずぼんやりと滲む母親の顔が、少し悲しげに歪んでいる気がした。



「私達のせいで、あなたを歪ませてしまった」


 ──だから、ごめんね。

 震えた指が、頬に触れる。



「あ、うぁ……」


 違う。


 お母さんは悪くない。

 悪いのはあいつらで、私で、みんなは何も──。


 そう訴えたかった。

 でも、私の口からは空気だけが漏れ出すだけだった。



「大好きよ、ノア」

「っ、お母さ──!」






 瞬間、世界が暗転した。






「お父さん、お母さん。お兄ちゃん、お姉ちゃん」


 真っ暗な部屋の中。

 立ち尽くす私の前に並ぶのは、首だけになった家族の姿だ。


 ──ギリッ、と奥歯を噛みしめる。



「ああ、やっぱり……許せないな」


 ポツリと呟いた言葉は、自分でも驚くほどに低かった。

 地獄の底から湧き出たような憎悪と、凍てつくような静かさを持った言葉。


 どれだけ現状が変わろうと、私の気持ちは変わらない。

 たとえ家族が許してくれたとしても、私自身がこの気持ちを忘れられない。



『お前は邪魔になったのだよ』


 影が地面から伸びて人の形を作り、ニヤリと粘つくような笑みが浮かび上がる。



 ──黙れ。



 私を中心に荒れ狂う炎が、影を燃やす。

 影は何の抵抗もなく形を崩し、再び私の前には家族が現れた。



「…………」


 手を伸ばし、触れる。

 途端にみんなは黒く染まり、地面に消えていった。


「…………ごめんなさい」


 虚しさは、不思議と無かった。

 すでにこうなる未来がわかっているからなのか、それとも──。



「いつか、私もそっちに行くよ」


 その前に、やらなければならないことがある。


 ──ゴンドル・バグ。

 お前を殺すまで、私は死んでも死に切れない。



「だから、待っててね」


 私は、永遠に続く漆黒の道を歩き出した。


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