これはこれは……紀州殿

 側近達と共に赤坂の紀伊藩邸に戻ると、早速家老に捕まった。

「殿っ。大勢の来客がございまして、殿のお帰りを今か今かとお待ちかねでございまするぞ」

 安藤飛騨守という中年の家老である。自ら庭先に出て、門の見えるこの場所で彼の帰りを待ち構えていたらしい。

「左様か……。だが、時間がない」

「昨晩もすっぽかしておられまする故、応対せぬわけには参りますまい」

「そうだな。……よし、まとめて謁見する」

 はっ、と畏まった家老は、ひとことふたこと側近に耳打ちした。側近はすっ飛ぶように屋敷内に駆け戻る。

 彼も、笠の紐を解いて側近の一人に預け、それから屋敷へと向かった。手水で手と顔を洗い、それから広間へと顔を出すと、既に懇意の大名達が五名、控えていた。

「待たせた」

 慇懃に頭を下げ、それから上座へ腰を下ろした。

 これこそが彼の信条である。彼は御三家筆頭の紀伊藩主であり、徳川の体制にあっては将軍に次ぐ身分である。しかし実質的にはよわい一三の若造に過ぎない。そこだけは常に、念頭におくべしと心得ている。

(年長者の心象を損ねては、何事も為せぬ)

 と、弱冠四歳にして家督を継いだ彼は知っている。格や身分を正しく示す事も大切で、格式の無視は許されない。その一方で、年長者を尊重するという姿勢を解り易い程示しておくべきである。

(その釣り合いを巧くとっておかねば、物事は動かせぬ)

 と、早くから大人に混じって育った彼は悟っていた。

「此度は大層お目出度うござりまする」

 五名を代表し、ひとりの大名が型通り挨拶を述べた。すかさず五人は、揃って平伏する。

「うむ。権現公(家康)以来の難局ゆえ、大いに貴公らの力を借りることとなろう。何分なにぶん良しなに……」

 彼は御三家筆頭かつ将軍世子としての威厳をきっちり保ちつつ、若輩者としての分をわきまえた返礼をする。

 一三の若造とはいえ、早くから大勢の大人達に揉まれて暮らしてきた。儀礼的振る舞いや格式に応じた発言など、自らの判断で自然にこなせる能力がとうに身に付いている。

 五名の大名が辞すと、次に諸大名の名代達が一〇名強、座敷に入ってきて平伏した。大名当人が国許に戻っていたりして不在のため、江戸家老や留守居役らがその代わりとして挨拶に来ているのである。

 段取りが出来ているらしく、一人が代表して挨拶文を読み上げる。読み終わると皆一斉に平伏。彼らが座敷を去ると、次に様々な身分の連中が一斉に入ってきて平伏。やはり一人が代表して挨拶文を読み上げ、平伏の後座敷をあとにする。

(ふう……。思ったより早う片付いたな)

 平装に着替え、茶を飲みつつひと息つき、彼は改めて、家老安藤飛騨守の仕切りの巧みさに胸を撫で下ろした。長らく幼い藩主を擁する紀伊藩は、それでも組織が上手く回るよう、各所に有能な人材が収まっているのである。

 程なく、執務の間に移動した。

 待ちかねたように、次々と様々な家臣達がやって来た。諸々の報告を受けつつ、決済を行う。或いは適宜、指示を下す。

「お国もと(紀伊)はとうに、梅雨真っ只中にございまして、拙者土砂降りの東海道を駆け上って参りましたわ」

 そう語る本国の勘定方役人から、雨による災害状況や農村の被害状況の報告を受ける。

「数年前の大地震の影響が、未だ残っておりまして」

 ……と役人が語るのは、四年ばかし前に発生した『安政大地震』の事である。

 その一連の・・・大地震は、まず夏前に隣国伊賀上野で発生し、年末には熊野灘から遠州灘沖、さらには駿河湾内が揺れ、続いて土佐沖が揺れた(いずれもマグニチュード七~八クラスである)。二日後には豊後、伊予でも大いに揺れた。いわゆる南海トラフの大地震である。

 一年後、今度は将軍のお膝元である江戸が、大地震に見舞われ、五つある紀伊藩邸もそれぞれ少なからず被害を受けた。さらに一年近く後には、三陸沖地震が発生した。

「そして今年に入り、飛騨でも地震が起きまして、お国許も揺れ申した。いや数年前の大地震も終息しておらず、まだ時折思い出したように揺れておりまする」

 そのせいか、藩領のあちこちで地崩れ等の被害が発生しているらしい。

 黒船来航に、一二代将軍家慶の死。京の大火に一連の大地震。さらにはペリー再来と日米和親条約締結による世論の沸騰。……

 次期将軍、いや先程一三代将軍家定より将軍名代みょうだいを仰せつかった身としては、アタマの痛い状況である。

 一方で彼は、未だ紀伊五五万五千石の当主でもある。本国紀州もまた、それらの混乱のさなかに在る。報告によれば、未だ次々と軽微な災害が続き、時には死者も発生しているというのである。

「左様か……」

 と頷く彼は、実は本国を知らない。四歳で家督を継いで以来、一度もお国入りを果たしていない。

 本国の事情にも明るい側近を呼び集め、地図をひろげて事細かく状況を尋ねつつ、対策をまとめ指示を出す。全てが終わったのは、陽もとっぷり暮れた頃であった。ばたばたと遅い入浴を済ませ、夕餉をかき込む。

 ふいに猛烈な眠気を感じた。

 なにしろ昨晩もほとんど寝ていない。

(されど、まだ寝るわけにはいかぬ)

 緊急に決断し実行すべき事がある。そのためにも、本日中にあの品川の奇妙なおなごと会い、少しでも知識を引き出しておかねばならないのである。

(早うせねば、町木戸が閉まる)

 周囲の者達には「床に就く」と告げ、コソっと装束部屋に忍び込むと昨日の羽織袴に着替えた。廊下の人影を探りつつ屋敷の外に出ると、愛馬・与太郎に飛び乗る。

 そのまま門外に駆け出……たところで一〇名足らずの者達に阻まれた。

「これはこれは……紀州殿」

 中程に居た二名が、夜目にも瀟洒な陣笠の紐を解き始めた。

「おおっ!」

 慌てて馬の手綱を引くと、与太郎が、ひぃ~っ、と鋭く悲鳴のように嘶き急停止した。

 ――紀州殿、と彼に声を掛けた御仁は、他ならぬ一橋刑部卿であった。

「おやおや……」

 その傍らで、陣笠を取り彼にニコリと笑みを向けたのは、越前福井藩主の松平春嶽しゅんがくである。四賢侯、と世に名高き大名の一人。彼にとって正に政敵たる、一橋刑部卿の後援者でもある。

「物騒なご時勢ゆえ、お忍びはお控えあそばされるよう……と申し上げたいところではございますが、我々もお忍びゆえバツが悪うございますな」

 三者互いに顔を見合わせつつ、小声で笑い合った。

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