鬼は怖いぃ
その頃、当の
朝早く赤坂の紀州藩邸に戻るなり、江戸詰めの家老から怒られた。
「殿っ。どちらへおられましたかっ!」
「わははは。済まぬ」
昨夜は彼の、将軍後継内定の報を聞き、多数の人々が挨拶に駆けつけて来たという。しかし当の彼が、いつの間にか姿を消してしまったため、やむを得ず、
「殿は大いにお疲れでおいでで、早々に就寝なされた」
と言って取り繕ったらしい。
「殿。夜遊びも結構ですが、身辺には十分ご注意下され。何かと物騒なご時勢でございますゆえ」
若い側近の一人が彼の耳元で、そっと囁いた。
「わかっておる」
彼は装束を改め、それから供を揃えて
すぐに茶坊主をつかまえ、将軍への拝謁を申し入れる。
当代――徳川一三代将軍家定――は虚弱体質で、しかも生まれつきの脳性麻痺がある。
将軍職を重荷と感じており、昨今はほぼ病床にある。いやそれ以前に、自身の麻痺症状を恥じ、元々あまり人前に出たがらない。
なるべく早く、世子を定めるべきであった。周囲もそれを求め、家定当人もそれを望んだ。しかし子はおらず、他所から養子を迎える必要があった。
有力な候補と言えばまず、御三卿の一人で、賢侯と名高い一橋刑部卿(慶喜)である。世間も一橋卿が次期将軍となる事を望んでいた。
だが、肝心の幕閣がそれを望まなかった。一橋卿が水戸徳川家の出身だったためである。
――一橋刑部卿の背後に、水戸の御老公がおられる。
大奥の女共は、女好きとして有名な水戸の老公(烈公斉昭)を毛嫌いしていた。諸々、因縁がある。
――その御子である刑部卿が一四代将軍にならせられるなど、とんでもない。
と誰もが思った。仮に一橋卿が将軍に就任すれば、老公までもが幕閣に乗り込んで来るだろう。それを大いに恐れたのである。そこで、
「刑部卿は鬼であらせられる」
と、女共は代わる代わる家定に吹き込んだ。そのせいで、一橋卿が家定に拝謁を求めても、
「鬼が来た! 怖い怖いぃ」
と、家定は半べそで逃げる。
井伊
「上様。上様の世継ぎは刑部卿がよろしいか。それとも紀州殿がよろしいか」
掃部頭が家定に尋ねると、
「鬼はイヤじゃ」
常に、泣きそうな顔で返答するのである。
これで世間の期待の高い一橋卿の、将軍就任の芽は潰えた。
「上様の御意思である」
一橋卿を毛嫌いする掃部頭の思惑通り、紀伊藩主徳川慶福が家定の世子に内定。
(されど……)
彼は、昨晩のライカの話を思い起こす。
「井伊大老って人は、外交だとか様々な政策で失敗を重ねた挙げ句、反対派を強行に取り締まって~、最後には水戸浪士とか薩摩の浪士に暗殺されちゃうの~」
詳しい事は知らないんだけど……という彼女の説明は、確かに曖昧ではある。
(まあ、先の時代から来た者が、何でも詳しく知っておるわけでもあるまい)
我らとて、例えば一五〇年前の歴史を
(しかし、頭の痛い話だ)
掃部頭は今まさに、アメリカとの条約交渉や、それに関する朝廷の同意取り付けに手こずっている。
前例なき『難題』であるため、条約交渉が難航しているのはやむを得ないだろう。掃部頭のみを責めるわけにはいかない。だが、
――朝廷の同意を得、そのお墨付きを以って世論を宥め、アメリカの要求する『開港』を実現する。
という掃部頭の方策は、他ならぬ今上・孝明天皇の強硬な反対により、早くも頓挫しかかっているのである。これは明らかに掃部頭本人の失策である。ただでさえペリー来航以来、幕府の威信が低下している。そこへ以って掃部頭の失策が重なると、今後幕府の舵取りは増々難しくなる。
ただ困った事に、掃部頭は彼の、いわば後援者である。
『南紀派』と呼ばれる、彼を一四代将軍へと推す勢力の旗頭であった。そんな男を、彼は自らの手で下ろせるのか。――
(やるしかあるまい)
ライカの話によれば、結局朝廷の同意を得られぬまま、幕府はこの先アメリカと通称条約を締結するらしい。
条約には複数の港を開く条件も含まれ、これに尊皇派はもとより攘夷派が
――安政の大ごく
ライカが昨晩、半紙に下手くそな字を書いた。後年、掃部頭の取締り政策は『安政の大獄』と呼ばれ、『井伊の赤鬼』と恐れられたらしい。一年か二年、そういった強硬策が続いた後、掃部頭は桜田門のそばで、浪士達に襲われ命を落とすという。
(やむを得ぬ。掃部頭排除は、当人のためでもある)
そう心に決めた、丁度その時、
「上様がお呼びでございます」
と茶坊主が彼を呼びに来た。先導されるまま、彼は長い廊下を進む。
「おお、紀州か」
将軍家定は寝間着のまま、縁側に腰掛け外を眺めていた。
病床から出ているという事は、今日は体調も良さそうである。表情が明るい。或いは昨日、彼を世子と定め後継者問題が片付き、ひとつ肩の荷が下りたせいかもしれない。
「上様、土産がございます。いやつまらぬモノでは御座いますが」
彼は、品川からの帰り道に買い求めた、饅頭の包みを家定に差し出した。
おお、と家定は嬉しそうに包みを解き、饅頭にかぶり付くと、
「紀州も食べよ」
と、ひとつを彼に差し出した。彼は頭を下げてそれを受け取り、口にする。そこへ折良く茶坊主がふたつ、茶を持ってきた。
「上様……」
彼は家定に声をかけた。
家定は足元の鶏を眺めている。
「ご承知の通り、大層難しいご時勢にございまする。お体のすぐれぬ上様にあらせられましては、日々大変でございましょうな」
「そうじゃ。……もう、
家定は両手を縁側の
ストレスを感じる度に見せる、彼の所作である。足元の鶏が驚き、慌ててバタバタと飛び去った。
「上様がこれ以上、苦しまれる事もございますまい。それがしが、上様に代わって働きますゆえ、上様はお体の養生にご専念なさいますよう」
「おお、それが良い」
家定は破顔した。頭を戻し両脚の動きを止め、そして彼の方に顔を向けた。
「大儀であろうが、紀州に全てを任す。良きに計らえ」
「承知つかまつる」
彼は頭を下げた。
「ところで……」
と、彼は改めて口を開く。
「昨晩、さる者より耳にした話でございますが」
「うむ」
「井伊掃部頭は、どうやら『赤鬼』だそうですな。近々本性を
「うわぁっ。鬼!? 鬼は怖いぃ」
泣き出した。
「上様も、掃部頭には充分お気をつけあそばすよう」
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