二、

アンタを引き取るんだとさ

「ライカ! アンタ、いつまで寝てるんだい!? はよう起きな!」

 女将おかみがドタドタと足を踏み鳴らしつつやって来て、布団を引っ剥がした。

「わっ!!」

 ライカは驚いて飛び起き、パンイチのあられもない姿で布団の上に正座した。

(ったく、何だいこのは……)

 酷い寝癖で髪がもっさりそそけ立ち、まるで獅子舞の親玉のようである。

 寝起きにも拘らず、目がぱっちりと大きい。二重で目鼻立ちが整っている。江戸近辺ではあまり見かけない顔付きである。

 そもそも、彼女を拾ってきた時の状況も、おかしい。女将はつい先日の事を思い返すのである。

 彼女は多摩川のほとりに呆然と立ちすくみ、半べそかいていた。

 見たこともない服装をしている。気が付けばその場に居た・・そうで、どこから来たのか、何者なのか……を尋ねても要領を得ない。

 異人か、とも思ったが、言葉は一応通じるので異人ではなさそうである。かと言って、商売柄諸国の訛りに明るい女将にも、どこの訛りだかまるで心当たりがない。

「どうしたら良いか、分からないの。助けて~」

 と縋り付かれ、女将はとりあえず、彼女を郭へ連れて来た。

 幸いこのご時勢で、とにかく人の往来が増え、商売は大いに繁盛している。人手は欲しい。飯盛女にでも……と思い、ライカの手を引き自らの切り盛りする郭へ招いたのが、三日前である。いや、もう四日前になるのか。――

「家も……じゃなくて、ええっとぉ……福之介様は?」

 ライカの口調や所作からは、身分の高そうな様子は見受けられない。なにしろ礼儀ひとつわきまえていないのである。多少会話もしたが、常識さえも碌にない。

 しかしその癖、色白で手荒れひとつ無いのである。

 田んぼ畑仕事はおろか、下女として働いたような経験も感じられない。さては裕福な商家あたりで遊んで育ったのかと思いきや、そうではないとライカは言う。

「福之介様なら、とうにお帰りになられたさ」

 夜が明けるなり、馬に乗って飛ぶように駆け去ったよ、と女将はライカに言う。

「アンタもさっさと起きて、仕事しな。……と言いたいところだけどさ、ちょいと話があるんだよ」

「ん?」

 怪訝そうに、首を傾げるライカ。

「福之介様からの言伝ことづてだよ」

「あ、何か仰ってました!?」

「ああ……。福之介様が、アンタを引き取るんだとさ。帰りしな、そう仰って金子きんすを置いていかれたよ」

「え~っ!!」

 何だい、このは。御本人から何も聞いてないのか……と女将は溜息をついた。

 昨晩福之介様は、座敷に入られてまだ幾ばくも経たないうちに、尋常ならざる面持ちでライカを指名し、二人して奥座敷へと引っ込んだ。

(それも、良く解らないねえ)

 ――この娘の一体どこが気に入ったんだか、と女将は首を捻る。

 素早く、辺りを見回す。

 福之介様が寝ていた筈の布団にも、その周りにも、男女の秘事が営まれたような形跡は見当たらない。

 行為の後始末をしたような懐紙などは無いが、その代わりに意味不明の言葉を書き綴った半紙が、数枚、そこらに散乱している。

(まあ、福之介様もよう解らぬ御仁おひとさねえ……。何か特段の事情でもあるんだろうけれど)

 それは敢えて問わないのが、この商売の習わしである。興味本位に問うて、厄介事に巻き込まれてはかなわない。

「そういうわけでさ、福之介様の方の準備が整うまで、まだ暫くここでアンタの面倒を見るよ。アンタは福之介様のお声がかかるまで、普段通り働きな。夜はお座敷にも出るんだよ。……ただし、お客は取らなくて良いから」

「はあ……。分かりました」

「お客からそうせがまれたら、『訳ありだから』と断っていいよ。それでもお客がしつこい時は、アタシを呼びな」

「分かりました」

「話はこれで終わりさ。さあ、さっさとこのお座敷の片付けを済ませて、他のお座敷の片付けを手伝うんだよ」

 女将はライカにそう告げると、立ち去った。

 既に陽は高く昇り、往来の人通りは多い。その喧騒がこの座敷にまで聞こえている。

 残されたライカは呆然としつつも、しかしとにかく立ち上がり、ノロノロと二組の布団を片付け始めた。

(つまり福之介様……近々一四代将軍になられるあの人が、あたしを引き取ってくれる、って事!?)

 未だ身辺の急変に戸惑っているが、冷静に考えれば、あたしにとって非常に有り難い話ではある。

(あたしって、もう遊女にならなくて済むかも)

 素直に、嬉しい。

 見知らぬ男達に毎晩抱かれるような生活なんて、幾ら覚悟を決めたとはいえ、正直なところ耐えられない。

 おまけに当世の男達なんて、ライカから見れば粗野で……身だしなみなんかも清潔感に乏しく、抱かれると想像するだけでゾっとする。

(でも、それって事は、あたしは次期将軍様の……愛人!?)

 それはそれで、暫く心の準備が要りそうである。

 まあ、でも……とライカは思う。

(まだ若いのに、すっごくあたしに配慮してくれて……優しいし)

 徳川将軍様なんて、ゴージャスなお城に住んで、高そうな衣服を着て、諸大名を従えて威張っているものだと思っていた。将軍に生まれた以上、たとえアタマが悪かろうと、日々威張って遊んで暮らせるイイ身分なんだ……と思っていた。ガッコでも何となくそういうイメージで教わった。

(だけど、あの人は……)

 そう思わざるを得ない。

 弱冠四歳で家督を継ぎ、江戸に居て紀州藩五五万五千石を切り盛りしてきたらしい。

 ――日々、遊んで過ごすなど、有り得ぬ。

 昨夜の――次期一四代将軍に内定した少年――は、そう吐き捨てるように言った。

 毎日政務に忙しいらしい。おまけにここ最近は、将軍後継問題に絡み多忙を極めたというのである。

「将軍家に生まれた以上、常に民百姓の暮らしが成り立つよう、気を配らねばならぬ。斯様かように難しい時勢においては、公儀の舵取りも困難極まりない。聡いそなたならば、想像がつくのではないか」

 ――将軍なんぞなるものではない、と彼は吐き捨てるように言った。

 だが大老井伊直弼の後押しで、当代の将軍家定公が首を縦に振った以上、逃れようがなかったらしい。

 ライカは暫し、傍らに寝転がる彼の横顔を眺めたものである。

 とうに元服は済ませた、というが、どう見てもまだ少年である。聞けば、一三歳だという。

(まだ中学生じゃん……)

 それでも当世においては、立派な大人として扱われる。それはもう、大変な重責を感じているのだろう。日々のストレスも凄い筈である。

 それなのに、彼は優しかった。私に気遣ってくれた。

 こんな奇妙な私の話を、真剣に聞いてくれた。私が一五〇年先の未来から来た事を、すぐに信じてくれた。私が語る『歴史』に、真剣に耳を傾け、そして私の突然おかれた状況に同情してくれた。

 なおかつ、女将の話によれば、私を引き取ってくれるという。

(あたしなんかより、ずっと大人っぽいし。優しいよ、次期将軍様……)

 膳を二つ抱え上げつつ、ライカは改めて痛感した。

(うん、あの人なら……)

 知らず知らず、笑みが、こぼれた。

 こんな思いは初めてかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る