第22話 救急搬送

 六月に入り、衣替えの季節がやってきた。

 その初日の朝。


『トントン!』


 着替え終わって下におりようかというタイミングでノック音が聞こえる。


「はい」


 ドアが開いて、


「じゃじゃーーん」


 夏服に身を包んだ千宮せんのみやさんが両手を広げてアピールしてくる。可愛い。


「似合ってますね」

「ホント! スカートも違うんだよ? ほら」


 手の指でスカートの裾を持ち上げている。いや、あまり上げないで。見えそうで怖いです。


「……見てるね」

「いや、それは見ますよ。そんなことされたら」

「そっかそっか。じゃあ、学校行こー」


 見られているのに何故ご機嫌なのか理解できない。見られると嬉しいってそれ変態気質なんだけど。


 ふたりで登校し、昼頃まで何気なく過ぎていった。


 昼食後、三人で図書室勉強タイムをしている。


「ねーえー、夏服になったんだし勉強やめよーよー」

「何が関係あるのっ。ほら、今日は世界史よ」

「うぅぅ……」


 毎日やっているわけではないが、たまの休み時間を利用してきょうどう先生のご指導が入る。


「えーっと、世界最古の人類の名前……何それ?」

「ほら、アレよ」


 僕も知っている。猿人だが、現在では諸説あるらしい。この場合、試験の解答はどれを書くべきなのだろうか。


「アダムとイブ?」

「違うわよっ。それは神話よ。アウストラロピテクスよ。まあ、現在はラミダス猿人やサヘラントロプス・チャデンシスの可能性もあると言われているわね」

「はあ!? 何それ? 覚えらんなーい」

「ごめんなさい、ややこしいことを言ったわね。アウストラロピテクスだけ覚えておけば良いのよ」

「えっ、何? オウストラリアピクルス?」

「違うわよっ。それじゃあ食べ物みたいになるじゃないの」

「もうわっかんなーーい」


 頭を抱えて机に突っ伏している。経堂さんの言葉で分かったが、今現在はテストでアウストラロピテクスと書けば良いのか。参考になる。


「そういえばアダムとイブってリンゴ食べたあとどうなるんだっけ?」


 急に閃いた千宮さんが起き上がる。


「アレはリンゴじゃないわ。エデンの果実――知恵の実よ」

「えっ、リンゴじゃないの?」

「神話だから確証はないけれど、そうだとされているわ。知恵の樹から取れる実よ」

「で、食べたらどうなったんだっけ?」


 アレってあまり良い内容ではなかったような……。


「確か、神様から食べるなと咎められている実を蛇にそそのかされて食べてしまったふたりは互いの……」


 あ、経堂さんが途中で止まっている。内容は確か知恵を得たふたりが互いの裸姿に恥じらいを覚える、じゃなかったかな。


「互いの?」


 あ、少し顔がにやけている。千宮さん、内容を知っているな。


「……あなた知っているでしょ?」

「えーー、知らなーーい。教えてーー?」

「顔を見れば分かるわ。あなたはどうしてこういう知識はあるのっ。罰として冨倉とみくらくんの前で内容を言ってごらんなさい」

「えっ!?」


 思わぬ展開に千宮さんが焦る。だけど、いつもからかってくるから物怖じせずに言うだろう。


「……ムリ」

「え?」

「むーーりーーー」


 そのまま走って図書室を出て行ってしまった。何故言わないの?


「あの子には困ったものね。留年したらどうするつもりなのかしら?」

「僕からも勉強するように言っておきます」

「お願いよ? あなただけが頼りだから」


 経堂さんに頼られるのは嬉しいなぁ。千宮さんに頼られるのとは重さが違う感じがする。先生や教授から頼みごとをされるみたいな感覚だ。




 午後の授業が始まる。いつも通りに授業を聞いているのだが、何か妙だ。右下腹部が痛む感じがする。千宮さんとの出会いの保健室ではみぞおちが痛んでいたから場所が違う。それに痛みのレベルが違う。何だろう?


「じゃあ、この部分を冨倉くん、読んで」

「はい……」


 中郷なかごう先生の指示を受け、痛みに耐えながら立って教科書を読む。痛い痛い。


「はい、ありがとう。続いて……」


 授業が全く頭に入ってこない。痛みは増すし、冷や汗も出てくる。動悸も酷いし、息もしづらい。母さん、僕死ぬのかな? 迎えに来たの?


『ドンっっ!!!』


 朦朧とする意識の中で鈍い音が聞こえた。おそらく椅子から落ちたのだろう。


「きゃーーー」


 クラスメイトの声がする。打った左肩が痛い。右下腹部も痛い。死にそう。


「と、冨倉くんっ! 大丈夫っっ!!」


 中郷先生の声がする。


琉生るいくんっ!」


 千宮さんの声もする。席は離れているけど来てくれたんだ。


「救急車を呼びますっ! 私が付き添うと授業が……」

「先生っ! 私行きますっ!」

「ホント! 千宮さんお願いね」


 ふたりの会話が聞こえる。

 隊員が来るまでの間、千宮さんがずっと背中をさすってくれている。保健室の時と同じだ。


 騒々しい一組に気付き、二組の皆が野次馬になっている。その中に経堂さんは居ない。人混みは嫌いだと言っていたな。


「あっ、そうだ。琉生くん、ちょっと待ってて」


 もう返事をする気力もないまま頷く。教室を飛び出していった。何をしに行ったのだろう?

 すぐに戻ってきた千宮さんの横を見ると経堂さんが必死な顔をしている。どうやら呼んできてくれたようだ。


「ちょっと! 大丈夫なのっ!?」


 経堂さんも近くに来てくれた。


「急に椅子から落ちちゃったのっ。背中さすってるんだけど」

「あ、頭を上げないと。私の膝に乗せなさい!」


 痛む腹部よりも心臓を上げないといけないからか。流石だな。

 硬い教室の床に頭を置いていたが、今は経堂さんに膝枕されている。全員が見ている中、恥ずかしさはあるが余裕がない。死ぬか生きるか状態だ。


「到着しました! 患者はどこですかっ!」

「あ、ここです!」


 隊員と中郷先生が話し合っている。男性隊員三人で来てくれたようだ。


「おいっ、担架持って来てくれっ」

「了解っ!」


 隊員が手際よく事を進めていく。そう重くない僕が軽々と運ばれる。


「ここからだと……神楽総合病院だな。じゃあ、向かいますから、付き添う方は?」

「はいっ! 私です!」

「じゃあ、一緒に来てっ」

「わ、私も行きますっ!」

「なら、一緒にっ」


 担架で運ばれているのでそれが誰の声なのか何となくしか分からなかった。

 しばらく目を閉じていると、隊員によって階段をおろされ、校舎外に止められた救急車に乗せられたようだ。うしろの入り口から頭から入れられ、右を向くと千宮さんと経堂さんが座っている。


「手、出してっ」


 僕寄りに座っている千宮さんの指示に従い、右手を掛布団から出す。すると、両手でそれを包んでくれた。


「歯医者のお返し」

「冨倉くん、頑張って」


 とても優しいふたりに癒されていた。

 その場面から意識は無くなった。




 目を覚ますと白い天井が見える。神楽総合病院なのだろう。周りには誰もいない。ただ点滴だけが僕の体と機械をつなげている。


「あっ、琉生くん、起きたの?」

「あ、千宮さん。ありがとうございました。心配かけて」

「ホントだよ。今、美心みこちゃんが先生の説明受けてるから。私聞いても分からないし」

「そうですか」


 何の病気だろう? 死の病なのかな? 今でこそ元気だけど幼少期は体が弱かったからなぁ。あり得るかも。


『コンコン!』


 ドアのノック音が聞こえる。ノックをするということは個室なのだろう。


「冨倉さん、気分はどうですか?」

「はい。楽になりました」


 青の制服を着ているマスク姿の男性医師だ。母さんの時で記憶にあるが、青は外科医の制服だ。手術になるのかな?

 医師のうしろに経堂さんが立っている。顔は浮かない感じだ。


「検査の結果なんですけどね、盲腸ですね」

「もう……ちょう」

「はい。もう少しで腹膜炎になるところだったので不幸中の幸いですね。ただ散らせる段階ではないのでオペになります。しばらく入院してもらいますよ?」

「はい……」


 盲腸なら死の危険はない、か。腹膜炎になれば死ぬ可能性があるが、それもセーフだったようだし。手術は怖いが、死ぬよりはマシだな。


「点滴で腫れを抑える作業を今日明日やって、明後日オペにします。その後三日間入院してもらっての退院になります」

「はい」


 説明が済むとすぐに部屋を出て行った。外科医は端的だとよく言ったものだ。


理衣りいさんが間に合わなかったから私が聞いたのだけれど良いのかしら?」

「はい、助かりました」

「琉生くん、手術するの?」

「そうみたいね。心配だわ」

「大丈夫ですよ。もう遅いですから、ふたりとも家でゆっくりしてください」


 時計を見ると午後六時を過ぎている。学校を出たのは午後二時頃だったから随分経過していると分かった。


「イヤイヤっ! 今日はずっとそばにいるっ」

「私も居たいのだけれど、家の用事があるの。ごめんなさい」

「大丈夫です。ありがとうございました」

「……あなたは一緒に住んでいるのだから冨倉くんのこと頼んだわよ?」

「うんっ! 朝までずっと居る」


 手を振って経堂さんは帰っていった。

 横を見るとずっと僕の右手を握っている千宮さんが見える。


「そっちのソファの方が背もたれがあって楽ですよ?」

「ううん。ここで良いの。そばにいたいの」

「ありがとうございます」


 白い天井を見ながら苦痛と幸せの相反する事象を経験していた。

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