第19話 歯医者

 そして次の日の土曜日。

 朝から理衣りいは出掛けていき、僕たちふたりになる。様子を見るため部屋を尋ねる。


千宮せんのみやさん、入りますよ?」


 返事はないが、開けてみると肩を落としてしゃがみこんでいる。予想はついていたが。


「どうですか? 痛みは」

「へ、ヘーキだもん……うぅ」

「頭まで響くんじゃないですか?」


 昨日とは違い、右耳の上辺りを手で押さえている。だいぶ悪化しているようだ。虫歯は誰でもなると言うが、その菌を放置すると全身に回る可能性がある。そうなると本当に危険なので冗談では済まされなくなる。頭痛もその予兆と思われる。


「痛くないもん」

「今から歯医者に行きましょう」


 しゃがみ込んでいる千宮さんに近づく。


「イヤっ。行かないっ」

「僕も一緒に行きますから。さあ」

「イヤっ。そういう琉生るいくんは嫌い」


 やっぱり。昨日の好きは告白ではなく家族としてってことだ。悲しい。だけど、僕も家族として心配なんだ。もう誰も失いたくない。


「心配なんですっ。もし悪化したらって思うと……。母さんみたいになって欲しくないから」

「琉生くん……」


 あまり声を荒げない僕の言動に驚いているようだ。嫌われたって良い、千宮さんが元気になってくれるなら。


「ずっとついててよ?」


 しゃがみながら左手を僕の方に差し出している。


「はい。ついてます」


 右手でその手を取り、引っ張って立たせてあげる。行く気になってくれたようだ。


 準備をして歯医者までふたりで歩いた。その間ずっと無言だったが。


 僕や理衣がお世話になっている歯医者に到着した。女医さんだから女性患者は気が楽だと思う。先生だと言っても男性に手を突っ込まれるのは不快だろうから。

 入ろうとすると横に千宮さんが居ない。見ると少し離れた所で立っている。


「入りますよ?」

「……」


 スカートの裾を手で握っている。子どもみたいだ。


「僕も行ったことのある歯医者なので大丈夫です。優しい女医さんですよ」

「……うん」


 渋々こちらに来てくれた。歯医者の玄関ドアを開けるとすぐ消毒液のにおいがする。これは病院なら仕方がない。


「あ、冨倉さん。今日はどうされました?」

「僕じゃないんです。知り合いの縁で一時的に同居してる人なんですが歯が痛みまして」

「あら、大変ですね。それじゃあ、椅子にかけてお待ちください」


 受付女性が応対してくれる。彼女は歯科衛生士だ。受付も兼任している。顔見知りではあるが、それほど頻繁に来る場所ではないので親しいわけでもない。女医さんもそれは同様だ。僕の名前と顔を知っている程度だ。

 手続きを済ませ長椅子に座っている千宮さんの元へ戻る。


「ああああ! いたいぃぃぃ!」


 突如小さい男の子の叫び声が聞こえる。それほど大きな歯医者ではないので治療中の音などはドアから漏れてくる。


「やっぱ、帰るっ」

「いや、待ってください。大丈夫ですから」


 立ち上がった千宮さんの腕を掴み、必死に引き留める。叫び声を聞いて顔が真っ青だ。


「でも、痛いって」

「あの子は小さい子どもだと思います。小さい時は痛がりますから」

「ホント?」

「はい」


 どうにか座り直してくれた。歯医者に連れてくるだけでこれだけ苦労するとは。理衣の方が素直だな。


 しばらくすると治療中だった男の子――いや、結構な年の男性が診察室から出てきた。


「帰るっ」

「ま、待ってください。次ですから」

「琉生くん、嘘ばっかりっ。おじさんだったじゃない」


 しまったっ。まさかおじさんだったとは思わなかった。説得力ゼロになってしまった。どうしよう。経堂さん、助けて。


「患者さん大丈夫ですか?」

「痛かったです」

「もうちょっと早く来てくださいね。早いと痛みが少ない治療で済みますから」

「すんません。歯医者嫌いだったもんでつい。今度から気を付けます」

「お大事に」


 おじさんと受付女性が話をしていた。この会話内容を利用するしかない。


「ほら、早く受けた方が楽らしいですよ?」

「……」

「どんどん進行するとさっきのおじさんみたいになっちゃいますよ?」

「……次嘘ついたら嫌いになるからね?」

「はい」


 これは危険な返事をしてしまった。もし、予期せぬことで嘘をついたと判断されれば大切な家族を失ってしまう。神様、お助けください。


「次の方どうぞ」

「はい」


 ふたりとも立ち上がると、


「ああ、付き添いの方はここでお待ちになってください。患者さんだけどうぞ」

「えっ!?」


 僕の隣で千宮さんがわなわなしている。ここは男気を見せよう。


「ちょっと彼女怖いみたいで一緒に入っても良いですか? どうかお願いします」

「本当は小さなお子さんだけなんですけど……。良いですよ」


 異例で付き添いを許可してもらえた。確か診察室にも簡易の椅子が端に置かれていたはずだ。そこで時間を潰そう。

 一緒だということで診察室に入ってくれた。


「はい、こちらに座って」


 ゴーグルとマスク姿の女医さんが診察椅子の隣に構えている。歯科衛生士とは違う雰囲気から物々しさを感じる。

 ずっとスカートを握っていたが、無言で椅子に座ってくれた。


「じゃあ、口を開けて」

「……」

「口を開けて」

「……」

「痛むんですよね? 治してあげますから口を開けて」


 ようやく重い口は開かれた。


「んー、結構進んでるかな。ちょっと痛いですよ」

「か、帰るっ」

「あ、ちょっと」


 椅子からおりる千宮さん。


「ま、待って。進んでるということは治さないと危険なんです。言いましたよね。僕は千宮さんが心配なんです」

「琉生くん……」


 どうにか頷き、椅子に座ってくれた。


「じゃあ、削りますよー。痛かったら手を上げてください」

「あああ!」


 削り始めてすぐ手はあげられた。


「あなた、こんな段階で上げてたら耐えられないわよ?」

「手」

「え、手が何?」

「手、握っててほしい」

「もうっ。ほら、彼氏くんお呼びよ?」


 えっ、僕彼氏じゃないんですけど。千宮さんも否定しないけどそれで良いの?

 仕方なく簡易の椅子を診察椅子の横まで運び、座る。


「琉生くん」

「分かりました」


 差し出された左手を左手で握る。まるで出産の立ち会いみたいだ。


「じゃあ、削りますよー」

「ああああああ!」


 手を握っていることもあり、何とか耐えているようだ。これならいけそうだ。


「はーい、一旦ゆすいで」


 下げられた背もたれがあげられ、椅子に取り付けられた洗面台で口をゆすぐ。結構な血が出ている。


「血が……」


 千宮さんも気づいてしまったようだ。


「はーい、残り半分いきまーす」

「えっ!? まだ半分なんですか?」

「ええ、そうよ?」

「も、もうやめます」

「あなたっ、こんな中途半端なところでやめてどうするの?」


 僕の時は優しかった女医さんがお冠だ。こんな性格だったなんて。


「でも血が……」

「あなたね、こんなことで逃げてたら出産とかはどうするの? 血はいっぱい出るし、痛みもケタ違いよ?」

「……じゃあ産みません」

「あなたっ、そんなんで良いの? 彼氏くんは納得すると思うの?」


 このままではマズい。フォローしないと。


「と、兎に角頑張ってください」


 僕の顔をじーっと見ている。タイミングが悪かったのだろうか。


「男の人は何も痛まないよね?」


 えっ、何の話? 今歯の治療なんだけど。


「それが宿命なの。男なんて無責任なものなの。私の出産に立ち会った時、旦那なんて言ったと思う? まだ? そんな痛いの? だって。興ざめよ」

「それひどーい」

「それにどう? 赤ちゃんの面倒見るので忙しかった時、構ってくれないとか言って。あんたは買い物してくるだけだっての」


 いやいや、先生まで何を言っているんですか。今は男を非難している場合じゃないです。男をどうにかするのはたけさんだけにしてください。


「あのぉ、先生、治療を」

「あ、あら、私ったら。兎に角、削るわよ。もうこっちから行くから」

「えっ!? ああああああああ!」


 とうとう強制的に治療が続行された。だが、その甲斐あって虫歯は完治した。

 女医さんと歯科衛生士にお礼を言って歯医者を後にした。帰る道すがら、


「終わってみれば大したことなかったわね」

「よく言いますよ。こっちは冷や冷やだったんですから」

「でも、約束守ってくれたね。ずっとついててくれたし、ずっと手も握ってくれてた。ありがと」

「いえいえ。治療できてよかったです」

「よーしっ、帰ってアイス食べるぞー」

「だ、ダメですよっ。先生言ってましたよね? 今日は刺激物を控えるようにって」

「ヘーキヘーキ」

「ダメですってばっ」


 家に着いた後、冷蔵庫前で格闘したが、どうにか僕が勝利した。

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