第10話 勉強会

 それからの数日、兎に角千宮せんのみやさんはきょうどうさんから逃げた。気づけば放課後に見当たらず、ひとりで帰ることもしばしばあった。その度、経堂さんからメールでつかまえてきなさいとお叱りを受けた。家に帰ると何食わぬ顔で僕に接してくるので、甘い僕はかばう形となる。


 だが、とうとうその日はやってきた。


「待ちなさい!」

「ぐっ」


 放課後すぐに教室を出ようとした千宮さんよりも早く、経堂さんがドアの前に立ちふさがる。


「のいて、美心みこちゃんっ。トイレ漏れちゃう」

「嘘おっしゃい! 限界のような人があれだけ早く走れるわけないでしょ」

「ぐっ」


 頭で経堂さんに勝てるはずがない。僕も言い負かせる自信はない。


「テストは明日なのよっ。分かってるの? 補習になるわよ?」

中郷なかごう先生は優しいから補習しないって言ってた」

「くっ……この私に言い返してくるなんて。良い度胸だわ」

「ありがと。私、勉強から逃げることには慣れてるもん」


 そうか。最初の出会いも保健室でサボっていたけど、あれも勉強絡みだったのだろう。


「じゃ」


 そう言って脇をすり抜けて廊下を走って行こうとする。


「あ、待ちなさい! ご褒美あげるからっ」


 ご褒美という言葉で足が止まった。現金なんだな。


「何くれるの?」


 僕も経堂さんの隣に移動して見ていたが、そろりと顔だけこちらへ向けている。


「ひとつだけ何でも言うこと聞いてあげる」

「えっ、美心ちゃんが?」

「ええ」

「どんなことでも?」

「え、ええ……」


 経堂さん、少し動揺してるよね? とんでもないこと要求されたらどうするの?


「分かった。勉強したげる」


 いやいや、自分のためなんだけど。まあ、その気になってくれたことは良かったけど。


「それじゃあ図書室へ行きましょう。今日一日しかないのだから急がないと。あなたも来てちょうだい」

「えっ、僕も?」


 経堂さんからお誘いを受けて三人で図書室へ行くことになった。


 図書室に入るが、かなり人が多い。明日のテストが災いしているのだろう。みんな同じことを考えているようだ。


「うっ、混んでるわね……」

「やった」

「あなた、今なんと?」

「ごめん……」


 怒られてしょげる千宮さん。

 だが、これでは座ることもできない。

 断念して図書室を後にし、人気のない廊下で話をする。


「どうしましょう。どこか別のところを……」

「うち来る?」


 な、な、何言っているのっ。そんなことしたらバレちゃうでしょ!


「良いのかしら?」

「うん――」

「いやいや、ちょっと待って! もうちょっと考えましょう」

「何故あなたが咎めるの? あなたの家じゃないでしょ?」

「ううん、琉生るいくんの家だよ?」

「は?」


 あーーーー、言っちゃったーーーー! どうすんの、この状況!


「だから、一緒に住んでるの」

「えっ!?!? そ、そ、それってつまり、ど、ど、同棲!?!?」

「ち、違いますっ、違いますっ。経堂さん、勘違いです」


 その後、急いで状況説明をすると知的ゆえにすぐ理解してくれた。


「そういうこと。納得したわ。心臓が飛び出るかと思ったわよ」

「なんで?」

「いや、なんでってあなた……。このことは他に言わない方が良いわよ?」

「え、なんで? 琉生くんと同じこと言ってるぅ」

「いや、それは冨倉とみくらくんの方が正しいでしょ。高校生で一緒にって絶対誤解を受けるでしょ?」

「でも、家族だよ?」

「そうだけど」


 ここで悲しいお知らせです。やはり僕は家族としか思われていません。ひとり勝手に失恋しました。


「分かったぁ。ふたりがそう言うなら黙ってるぅ」


 一安心だけど、心なしか土砂降りのような感覚に陥る。やっぱり僕に恋なんて必要ない。勉強しよう、そうしよう。




 それから経堂さんを案内すること二十分、僕たちの家に着いた。


「どうぞ、あがってください」

「お邪魔します。へえ、綺麗にしてるのね」


 玄関をあがり、リビングを見て経堂さんはそう言った。家族みんな整理整頓は得意なのでそう見えるのだろう。千宮さんは少々大雑把なのだが。


「じゃあ、二階へどうぞ」


 三人で二階にあがるとすぐに千宮さんが言う。


「琉生くんの部屋でしよ?」

「えっ、なんで?」

「私の部屋、今はちょっと……」

「あなたのことだから……。ちょっと見せてちょうだいっ」

「いーやーだー、やーめーてー!」


 何故か千宮さんと経堂さんの押し相撲が始まっている。でも、以前グミキャンディーゲームをした時は普通の部屋だったはず。

 押し相撲に勝った経堂さんがドアを開けて中を見た。僕は男なので見に行くことを自重する。


「な、なんなの……コレは……」


 えっ、すごく気になるんだけど。部屋の中どうなってるの?

 すぐドアを閉めてこちらに戻ってきた。


「あなたの部屋を貸してちょうだい」

「え、え、どんな部屋だったんですか?」

「いえ、とても口には……」


 えーーー、経堂さんがそんな顔するの? まさかゴミ屋敷みたいになってるの?


「てへっ」


 僕の部屋に入る時、千宮さんが僕を見てそう言ってくる。

 てへってなに? どういうことなの?


「あら、流石冨倉くん。綺麗ね」

「ホント。お菓子ひとつ落ちてない」


 んっ、今なんと? お菓子? 部屋で食べてるの? 零してるの? 掃除しないとアレが大量発生しちゃうよ? 僕の部屋まで来ちゃうよ?


「あのぉ、千宮さん。掃除しましょうか?」

「い、良いの良いのっ。また私がするからっ」

「そうですか……」


 そう言えば、僕の部屋には勉強机しかない。どうやって勉強するのだろうか。


「この机に三人はムリね。簡易のテーブルなどはあるかしら?」

「あ、母さんの部屋を整理した時に足を立てる簡易机がありましたね。今、父さんの部屋にあるので取ってきます。あ、千宮さん。座布団ありますか?」

「私の部屋にふたつあるから取ってくるぅ」


 座布団がふたつあれば、僕が勉強机に添えられた椅子に座ればいけそうだ。

 部屋に入ることは許可されているので父さんの部屋に入り、テーブルを運び出す。簡易のものなのでひとりで十分運べた。

 それを部屋に設置して準備は完了した。


「それじゃあ、始めましょう。数学の教科書を出してちょうだい」


 僕と千宮さんが数学のテキストを出す。そして、千宮さんと経堂さんが座布団に座る。


「あ、ちょっと! 座布団にお菓子がっ。ああ、スカートに付いたわ」

「ごめーん。はたいたげる」


 立った経堂さんのお尻をパンパンはたいている。


「ねえ、親に叱られているみたいで嫌なのだけれど」

「え、お尻ぺんぺんされてたの?」

「小さな頃だけよ」

「そっかぁ……。ほれほれー」


 そのことを聞いた途端、余計に力が入る千宮さん。


「ちょ、あなた怒るわよっ」

「ごめん……」


 経堂さんの圧に屈している。


 そして、ようやく勉強指導が始まった。僕の方は何の問題もないようだった。


「流石ね。物分かりが良いわ」

「いや、経堂さんには敵いませんよ」

「問題は……」


 ふたり同時に千宮さんを見る。


「ねーえー、わかんなーい」

「あなた、そこは違うと言っているでしょ。零で割ってはダメなのっ」

「なんで?」

「存在してはいけない数になるからよ」

「ミスターXってこと?」

「はあ? 何を言っているの。ああ、私こんな人初めてだわ……」


 あの経堂さんが手で片目を覆って悩んでいる。


 その後、かなり長時間にわたる指導の結果、何とか赤点を免れそうなレベルになった。


「これでどうにかなるでしょ……疲れたわ」


 経堂さんの息があがっている。


「私、やればできるんだぁ。数学者になろっかな?」

「調子に乗らないのっ。今回は範囲が狭いからできただけよ」

「ちぇーー。あ、みんなでお菓子食べない?」

「まあ、疲れたからいただくわ」

「ちょっと待ってて」


 急いで部屋を出て隣へ向かっていった。


「経堂さん、ありがとうございました」

「いえいえ。あなたは、上出来だったわよ」


 経堂さんから褒められて嬉しかった。

 すぐに千宮さんが戻ってくる。


「はーい、どうぞーー」


「「えっ!?」」


 その半端ない量にふたり同時に驚いた。


「あなたね、もうすぐ夕食だというのにこんな食べられるわけないでしょ!」

「ヘーキヘーキ」

「まったく……」


 経堂さんでも勝てない相手がいることを知った瞬間だった。

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