第42話 始まりは冬の夜
ヴァルナからティートゥーリの小袋を奪い帰宅したファラは、すぐさま手鍋で煮出して冷ましたものを作り、病気の息子に飲ませた。
発疹が少し剥がれかけてきていた息子は、煮出し汁を飲むと、見る間に症状が治まっていった。
神に感謝し息子を眠らせると、着替えさせたり体を拭いたりかいがいしく看病を済ませた。小袋はポケットに隠し持って、娘と夫の夕食を作りに子供部屋から居間へ下りる。
夕食を作っていると、お隣さんが林檎を持って訪れた。
声をかけても戸口から家の中には入らず、なんとも不自然にこちらの様子を伺っているのがありありと分かる。
「ファラ、息子さんの具合はどう? 随分高い熱が出ていたって、まさか、あの噂の流行り病なの?
洋品店のとこの旦那さんも、なんだか寝込んでらしてね。発疹の後にそれがボロボロ剥がれてきたって、奥さんが酷く動揺しててお気の毒だったわ」
「それはお気の毒だね。早く治るといいんだけど。うちの子は今熱が下がってきて、良くなってきたところだよ」
「あら! それは良かったわ。普通の風邪だったのね。そうよね、冬だもの、子どもはすぐに熱を出すものだわ。
病気の時は、とにかく食べて寝るに限るわよね。これ、食べてちょうだいね」
伺う様子から一転、明るいいつもの調子で林檎を渡されて、お礼と愛想笑いを浮かべ受け取るファラは、内心ではひやひやしていた。
息子の熱に、流行り病かどうか確認しに来たのだろうか。
発疹が出ていると知るのは、息子本人と看病している自分だけ。黙っていれば、ただの風邪とでも思われて気付かれないだろう。
それでいい。もう治ったんだ。うちには、もう関係ない事だ。そう、自分に言い聞かせた。
けれど、洋品店の旦那さんも発病したらしい。いつもお馴染みの洋品店。今まで何かとお世話になってきた。人の良い夫婦に子どもはおらず、夫婦二人で支え合って生きている。
もし、もしも、旦那さんが亡くなったら、奥さんはどうなるだろうか。
いや、この秘密が分かったら、自分達だけ助かるつもりか皆にも分けろと、責め立てられるだろう。
残っているのは、後少し。それでも、まだ、後少しはある。
ヴァルナちゃんの事は絶対に言えない。あの子に不思議な魔法の力があると分かっちゃあ、力のある大人たちに掴まえられてしまうだろう。
このハーブ、とんでもない効き目だけれど、もしかしたら、薄めて少しなら、ゆっくり効くかもしれない。それなら、このハーブで治ったと分からずに、誤魔化せるかもしれない。
ヴァルナの事は知られてはいけない。
けれど自分達だけ助かるという良心の呵責に、ファラは籠の用意をした。夫と娘に、少し出掛けてくるから夕食は先に食べてくれと声かけて、静かに家を出た。
雪の降り始めた夜道を小走りで急ぎ、ファラは灯りの落ちた洋品店をノックする。
病気を警戒してか、石畳を通る間、誰にも会わなかった。みな、家に閉じこもって、病魔が過ぎ去るのを息を潜めているのだろう。
洋品店は、一階が店舗で、二階は住居となっている。いつもなら外まで零れる灯りが見えない。けれど病気で寝ているという事なら、家に居る筈だ。
辛抱強く、控えめなノックを繰り返した。
少しして、やつれた顔の奥さんが出てきた。
大変だねと声かけながら、お見舞いの品だと籠を渡す。中に招かれて入ってみると、いつもは明るい店内が寒々しく感じられた。
二階の居間でお茶を用意する奥さんに、ファラはハーブを少しだけ混ぜた茶葉を渡した。
「ちょいと知り合いに貰ったんだけどね。体に良いお茶だって、良かったら旦那さんと一緒に飲んどくれよ」
差し出すファラの手に、奥さんの涙が落ちた。嗚咽が漏れて、小さく丸められた背中にいつもの溌溂さは無い。
明るく元気に店を盛り立てていた奥さんは、迷子の子どものように泣きじゃくった。
大事な人が病気に倒れる。自分にはどうしようもない。治すことも、代わってやる事も。ただただ、目の前で苦しむのを見ているしかできない。
その辛さが、身に染みてわかってしまった。
「あんた、気をしっかり持って、大丈夫さ、きっと治るよ。こんなに誠心誠意真心こめて看病してるんじゃないか。
きっと大丈夫さ。ほら、暖かいお茶を飲もう。あたしが淹れてもいいかい? ちょいと台所借りるよ」
ゆっくり手を引いて椅子に座らせると、ファラは湧いた湯を使ってお茶を作った。これなら、だいぶ薄まってるってもんだ。きっと、ゆっくり良い様に作用して、病気だって治してくれるだろう。そうさ。ファラはまじないのように言い聞かせた。
奥さんを促して、旦那さんへ持って行かせた。寝室へと消えた奥さんを見送って、ファラは自問自答する。
これで良かったのか?
奪うようにして手に入れたハーブ。絶対に出どころだけは知られちゃあいけないハーブ。だけど同じように苦しんでいるのに、自分さえ助かれば良いと黙っているのか?
家族を守る為だ、そうするべきだったかもしれない。でも夫と二人きりの奥さんは、唯一の家族を失ってしまったら、もし、それが自分だったら……?
何が正解だったかは分からない。
ただ、もうハーブは渡したのだ。賽は投げられた。
暫くして、寝室から泣き叫ぶ声が聞こえてきた。まさか、薄めて他のお茶っ葉と混ぜたから悪く作用してしまったのかと、慌てて寝室へ駈け込む。
そこには血と膿で汚れた夜着を身に着けて、泣きじゃくる奥さんを優しく宥める旦那さんの姿があった。
隅に置かれた小さな燭台の灯りで照らされるのは、破れも膿も無い健康な肌。ファラに気付いて、奥さんを抱きしめたまま何度も何度も感謝の言葉を口にする。
薄めても、多少混ぜても、とんでもない効き目は変わらなかったのだ。
もう助からないと思ったものが助かったと、興奮冷めやらぬ二人にファラは慌てた。
「ああ、病み上がりにそう興奮しちゃあ、体に毒だよ。ほら、汚れ物は着替えてまた寝た方が良い」
そう奥さんに着替えさせるよう促して、部屋を後にする。薄暗い居間へ行き、バクバクする心臓を押さえた。
ああ、あんなに凄い効き目を発揮しちまうだなんて、バレやしないか。
いや、よく口止めしていれば、大丈夫さ。それに、まだこの流行り病がでたのは、ここの旦那とうちの子くらいしか聞かない。
薬を寄越せと押し寄せるなんて、そんな事ならないさ。
少しして汚れ物を手に奥さんが寝室から出てきた。椅子に座って待つファラを認めると、足元に跪いた。
「ああ、ああ、ありがとう。ファラ。あの人が死んでしまったら、私一人っきりになってしまう所だった。
もう、ダメかと思ったの。どんどん病気は悪くなるばかりで、皮膚は割けて剥がれて、膿が出て……」
その絶望した光景が、まざまざと浮かんだのか、奥さんは跪いたまま再び泣きじゃくる。
「やめとくれよ。あたしゃなんにもしちゃいない。ただ、御見舞いに来ただけだ。その、そうだろう?
薬なんて持っていやしないし、病気が治ったのは旦那さんが自分で治したんだよ」
良い澱むファラに、奥さんはうんうん頷く。
「そう、そうね。そうだったわ。ただ、御見舞いに来てくれたのよね。ありがとう。本当に、ありがとう。ああ」
なんとか宥めて、洋品店を後にした時には、すっかり夜も更けていた。
暗く静まり返った街中に、泣き叫ぶ声は、歓喜の声は、よく響いた。
雪の積もり始めた石畳に足跡つけて、寝静まった家に帰りついたファラは、暖炉の前の揺り椅子にドサッと体を預けた。
家族はみな先に休んでおり、息子の様子も覗いて見たが、規則正しい寝息を立てていた。
パチパチと火の粉が爆ぜるのを、ぼーっと眺める。
これで良かったんだ。
ヴァルナちゃんからは奪い取るような真似しちまって申し訳ないが、少なくとも洋品店の旦那さんはもう酷い有様だったんだ。
今夜薬を渡してやらなきゃあ死んじまってたかもしれない。いや、きっとそうだ。あんなに血と膿に塗れていたんだから。
暖炉の炎に照らされて、瞼が重くなってきた。酷く興奮した分、いつもよりなんだか疲れてしまった。
すこしだけ、このまま目を閉じて休んでしまおうか、いや、それでは風邪をひいてしまう。ベッドへ行かなければと、重たい体を起こそうとした時。
ノックの音がして、ファラの肩はびくりと飛び上がった。恐る恐る戸を開けると、洋品店の向かいに店を構える、小物屋さんの旦那だ。見知った顔に、大きく戸を開けた。
「なんだい、こんな夜更けに、どうしたんだい?」
いつものように声をかけるも、小物屋の旦那は思いつめたような表情で、入って良いかという。いつもと違った様子に、ファラは戸口を少しだけ開けたまま玄関に招き入れた。
「悪いけど、もうみんな寝ちまってるんだ、手短に頼むよ」
声を落とすファラに、小物屋の旦那は、がばっと勢いよく頭を下げた。
「頼む。お前さんさっき洋品店に薬持ってってやったんだろ? あそこの奥さんが治ったってえ声が、外まで聞こえてきた。雪に残った足跡辿ったら、お前さん家に着いたんだ」
「しーっ、やめとくれ、そんなもんないよ。お見舞いの品を持ってっただけさ。あんたんとこはみんな元気なんだろう? じゃあ薬なんていらないじゃないか」
慌てて声を潜めるファラに、小物屋の旦那は必死に食い下がる。
「実は、家のが熱だしたんだけど、あの噂の流行り病だったらって誰にも言えないでいたんだ。今日、発疹が出てきた。なぁ、明日になったら、膿が出ちまうのか? 頼む、この通り」
「だから、あたしゃなんにも持って無いって、ああ、もうやめとくれ」
ひそひそ押し問答をしていると、少しばかり開けたままの戸が、またノックされた。
「夜分にすみません。あの、奥さん、もしかして、薬の心当たりがあるって聞こえたんですけど」
「ファラさん、まさかあんた良い薬を持ってんのかい? 馴染みのよしみで少し分けちゃあくれないか」
開けられた戸の向こうには、いつの間にか、人、人、人。
みんな、恐ろしい流行り病に、家族が熱を出してもいいだせなかったのか、期待に満ち満ちた目でファラを見る。
暗い夜の闇の中、僅かな家の灯りを受けて、人々の目がギラギラと光っているような気がした。
ファラは、思わずポケットの上から小袋に触れた。
「い、いや、あたしゃ、何にも……」
それを目敏く見ていた小物屋の旦那が、手を伸ばしてエプロンのポケットから小袋を奪った。
しっかり握りしめて、踵を返し外へと飛び出る。戸口に居た数人がぶつかって転げても、振り返りもしない。
「あっ、待て! 独り占めする気か!」
それを見て、集まった人々は一斉に小物屋の旦那を追いかけた。開けた大通りの辺りで捕まり、小袋が宙を舞う。ヴァルナが真心込めて作った結び紐が解けて、中身がパラパラと降ってきた。
街燈に照らされて、雪の積もった大通りに、ティートゥーリの葉が散らばった。それを、我先にと皆拾って帰っていく。
明日になれば、朝が来れば、それはフォルステライトから街の人々へ配られる予定のものだ。ヴァルナが祝福を与えたティートゥーリの木から、何度でも採取出来るはずのものだ。
だけど、人々はそれを知らない。明日があるのを知らない。今目の前で苦しむ家族しか、知らない。
争わなくても、手に入るもの。それを知らない人々は、愛する家族を助ける為に、必死で争い奪い合った。
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