第35話 始まりは冬の夜

 トルシィに促されるまま、ヴァルナは中庭にあったティートゥーリの木やいくつかのハーブへ力を注いでいった。


 その後は、ローレルから買ってもらった物や古着といった身の回りの品をトルシィの用意した鞄に詰め込んだ。

 焦げ茶色で長方形の旅行鞄は、いつの間にか増えていた持ち物で、あっという間に埋まっていく。それを見て、ヴァルナはなんだか泣きたくなってしまった。


 ここへ来た時は何にも持っていなかったのに。

 全部、ローレルさんやおばさんや、みんなのご厚意で頂いたものだわ。こんなに良くしてもらったのに、こんなに助けてもらったのに、私は逃げるようにここから出て行かないといけないのね。

 ううん。約束を破った私が悪いんだもの。


 ぐっと、顎に力を入れて堪えた。顔を上げると、壁に凭れて見守るトルシィが穏やかな笑みを浮かべている。


「あの、最後に、ローレルさんへご挨拶したいんです。沢山助けて頂いて、私……」


 我が儘だわ。だめよ。やめなさい。


 頭の中で自分の声が響いて、言いかけた言葉を途切れさせる。


 お父さんやお母さんとは違うの。優しいからって、簡単に甘えちゃダメなの。


 今度は自分で自分に、一生懸命言い聞かせた。俯く瞳から、言えない言葉の代わりに涙がぽたぽたぽたぽた落ちてった。


「強い子だね。ヴァルナ。強くて賢い、いや、強く賢く在ろうと努めているのだね」


 部屋の戸口で支度を待っていたトルシィが、静かに近寄ってヴァルナを抱きしめた。あやすように、優しく頭を撫でやる。


「努力する事は良い。大切な事だ。理想を語るだけで行動に移さない者には、何も為せはしない」


 空いてる手で、ヴァルナの小さな背中もぽんぽんしてくれる。


「だが、忘れてはいけない。己を潰す程、心を殺す程、我慢しなくて良い。

 努力は自分の為にするのだ。結果、誰かの為にもなったとて、それは副産物というもの。本来は自分の為にするものなのだよ」


 優しく語るトルシィに、ヴァルナはそっと顔を上げる。

 フィルやフォルステライトに対してはいつも飄々としているトルシィが、慈愛に満ちた穏やかな眼差しで見下ろしていた。


「良いんだ。生き物は、まず、自分の為に生きて良いのだよ。

 それが、生き物というものだ。無論、中には己の快楽の為だけに他者を害そうする者もいるが、それは論外。

 ただね、生きているからには、まず、自分の為に生きるのが自然な姿なのだよ」


「じぶんの、ため」


 小さく繰り返すヴァルナの目元を、トルシィのしなやかな指先が拭う。涙の痕をたどるぬくもりは、母のように優しかった。


「さあ、ヴァルナはどうしたい? 自分の心に聞いてみると良い。

 君は人だ。特別な何かじゃない。ただ、今を生きる人だ。さあ、今、君の心は何を望んでいる?」


 ヴァルナの縮こまった心の奥へ、ゆっくりと言葉が染み入った。

 約束を守れなかったと、突然ここから出て行かなければいけなくなったと、優しくしてくれた人に迷惑をかけてしまうのだと、悲しみで心がギューギューと締め付けられていたのだ。


 締め付けるのは、自分自身。

 自分の心は誤魔化せない。自分が自分を責めて仕方なかった。

 どんなに目を逸らせようとしても、自分からは逃げられないんだ。

 そんな自分で自分を締め上げる手を、指先を、一本一本優しくゆるめるように、トルシィの言葉はヴァルナの心をほぐしていった。


「私、私、みんなに謝りたい。フォルステライトさんに許して貰いたい。沢山助けてもらったのに、ありがとうもごめんなさいも言えないで、逃げるなんていや。私、ローレルさんにちゃんと、ちゃんと……」


 そこまで言って、ちゃんとどうしたいのか自分でも良く分からなかった。


 ただ、おばさんに酷い事をさせたのは自分だと分かっていた。秘密だと言われた力を、おばさんに見せてしまったのは自分だから。

 困っている人に力を見せつけるなんて、飢えた人に食べ物をみせびらかすに等しく思えた。


 ちゃんと約束を守れていたら、おばさんはあんな酷い事をしなくて済んだ。

 流行り病が出たのなら、自分の力を解放してくれたトルシィが使い方を教えてくれたはずだ。フォルステライトとの会話でも、教えようとしていた使い方を自分で見つけてきて驚いたと言っていたのだから。

 そうしたら、きっと、誰も傷付かずに、おばさんの子どもだって薬で助かっただろう。


 フォルステライトを困らせてしまったと、怒らせてしまったと、その許しを乞いたかった。

 挽回のチャンスが欲しかった。自分のせいで迷惑をかけて、それを知らんぷりして逃げるような事はしたくなかった。


 ローレルは……


 そこまで考えて、ヴァルナはローレルだけ他の人と違うと気付いた。自分の中で、ローレルだけ、なんだか違う感じがした。

 ありがとうと言いたい。でも、前にもう言った。ごめんなさいをしたい。ただ伝えるだけなら、手紙だって良いかもしれない。お礼がしたい。襟巻を贈ったら喜んでくれていた。


 でも、でも、それだけじゃ足りないと思った。

 何が足りない? どうして、足りない?


 これが何なのか分からない。トルシィは心に聞いてみると良いと言う。聞いても、何を望んでいるのか、はっきり分からない。

 自分の事なのに、自分で分からない。どうして?


 困り顔で見上げてくるヴァルナの姿に、トルシィは心得たと頷く。


「分からないのだね? ふふ、良いんだよ。それも答えの一つだ。

 分かるという事も、分からないという事も、どちらも正しく一つの答えなのだよ」


 そう言って、ヴァルナから体を離し、荷造りしたばかりの旅行鞄を持つ。


「さ、行こう。分からない時はどうするか。そうさな、方法はいくつかあるが、この場合は……」


 若干芝居がかった仕草で考える素振りを見せて、にやりと悪戯っ子のような表情になる。


「直接、確かめに行く事をおすすめする」

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