第32話 始まりは冬の夜
「ファラおばさん! お疲れ様!」
「ああ、今日も元気だね、ヴァルナちゃん」
昨日と同じく、中庭で練習をしながらおばさんが通りがかるのを待っていたヴァルナは、小走りで駆け寄った。
「あの、良かったら、これを使ってみて下さい。ティートゥーリの葉っぱで作ったの。あの、お湯で煮だして、丁度良いくらいのぬるま湯にしてから手を浸けると、傷に効くんです。
お母さんも冬は手が荒れるからって、毎年冬になると作っていました。片手鍋にこのくらいのお水なら、一つまみかな。袋の中が無くなったら、また葉っぱを用意しますね」
「おやまぁ! 可愛らしい刺繍まで入って、これ自分で作ったのかい? ああ、前に上げた古布かい! こんな立派な小袋になるなんてね。結び紐も布で作ったのかい。ああ、お母さんのお仕込みが良いんだろうねぇ」
差し出された小袋は、袋の口の端っこに、小さな花の刺繍が施されていた。嬉しそうに受け取ってくれたおばさんとさよならする。ポケットには、後二つ。
心なしか足早に向かうヴァルナの足元を、フィルがとてとてとついていった。
少し緊張してドアをノックする。
ドキドキ。ローレルさんいるかな?
少し待ってみても、返事は無い。
もう一度ノックする。
……やっぱり、返事が無い。今は部屋に居ないみたいだ。
少しがっかりして、ヴァルナは廊下を逆戻り。
とぼとぼ歩いて中庭へ向かった。なんとなくいつもの場所になりつつある、日当たりの良い石の上に座る。足元に来たフィルが体を擦り付けて、ふわふわの毛を抱き上げた。
ローレルさんは忙しいのよ、今まではお仕事だからお世話してくれていたの。これ以上手を煩わせちゃいけないわ。
突然部屋へ行っても、会えない確率の方が高いだろうに、やっぱり会えないとなると思ったよりがっかりしてしまった。
「さ! 練習練習!」
いつまでもうじうじしてたって、なんにもならない。カビが生えちゃうわ。それでもうじうじしたかったら、もうお昼寝でもしちゃおう。うん。
自分に喝を入れて立ち上がるヴァルナの腕から、ストンとフィルが降りる。練習を始めるヴァルナの近くで、丸まって日向ぼっこしながら見守っていた。
「まったく、蜜に群がる蟻の如く。人間というものは強欲だね。死は生と共にある。生きるからには死から逃れられはしない」
夜の帳が降りる中。神殿にある鐘塔のてっぺんで、トルシィは憐みを零した。
今日もまた、トルシィの張った結界にかかった者が、彼によって捕らえられ地下牢送りだ。
流行り病から逃れようと、聖女の噂を聞きつけた者達が財力権力にものを言わせてヴァルナを狙っていた。とはいえ、信憑性は如何ほどか。まだまだ様子見で偵察に放たれた者も、中にはいるようだった。
「ふふ、あの坊やも忙しいな。まだまだ雛鳥。沢山経験を積んで育つと良い。フォルテの可愛い可愛い雛鳥君」
トルシィによって捕らえられた者達に尋問するのは、ローレルの仕事だ。ヴァルナへの独占欲を見せた表情を思い出し、トルシィの瞳に少しの笑みが浮かぶ。
まだまだ幼い、あれでは大切な者はおろか、自分自身すら守れない。あの子もまた、背負うものがある。
「傲慢。虚飾。怠惰。憤怒。憂鬱。強欲。色欲。暴食。君達は、生きるからこそ生まれるもの。自我があるからこそ生まれるもの。生きる活力の源泉となり、死に誘う罪となりうる。生が終わらぬ悲劇なれば、死こそが解放、救いとなるか。それとも……」
唄うように囁く言葉は、風に乗って何処かへ消えた。
「愛し子達。願わくば、その行く末が光射す野辺へと繋がるよう、祈っているよ」
祝福の言葉を口にして、トルシィは大きな白い翼を広げる。暗闇で微かに白く光るその姿は、けれど誰の目にも止まりはしなかった。
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