第28話 始まりは冬の夜
グルルと喉を唸らせるフィルへ、躊躇いがちに伸ばされた手が毛並みを撫でる。
「フィル、そんなに怒らないで。初めて会う時って、大切らしいの。
人は初めて会った時の気持ちを、ずっと持ち続けやすいのよ。会ったばかりの人に、どうしてそんな怒るの?」
心底腹立たしそうに牙を剥きだし唸っていたフィルが、ヴァルナに撫でられ渋々牙を収める。ぺしんぱしんと、ふっさふさの尾でヴァルナの手を払う。
「間抜けめ、コイツのどこが人だ」
「おやおや、随分な物言いだね、君は。思い出が琥珀に変わっても、君の性格は変わらないな」
「阿呆が、琥珀に変わる程の時は過ぎてねえよ」
「おっと、口が悪いのも相変わらずか。言葉には気を付けたまえ。言の葉とは意思の伝達手段であり、誓いであり、寿ぎであり、呪詛である」
「うるっせ、要件はなんだ。さっさと言え」
いいように揶揄われていたフィルが、唸りを押さえると、トルシィも愉悦の笑みを消した。
「そうさな、愛し子殿へ祝福を。甘美なる苦しみへ御慰みを。ヴァルナ、君の行く先が光の野辺へと続く事を、祈りに来たのさ」
真面目な顔でヴァルナへ語り掛けるトルシィに、フィルは不機嫌を潜めて何か考え込むように黙ってしまった。
双方を不思議そうに見比べていたヴァルナは、トルシィへ小首を傾げる。
「なぐさめ? いのり? えっと、ありがとうございます。あの、私、大丈夫ですから」
笑顔で言うヴァルナに、トルシィは僅かに顔を歪ませた。痛ましいものを見るような眼差しに、ヴァルナは気付かない。
「さて! 自己紹介も済んだ事だし、早速だが授業といこう」
トルシィの突然な教師宣言に、ヴァルナは目を真ん丸くする。
「えっ? トルシィさんは王都から来られた神殿の方で、私のお世話をして下さるんですよね。あの、お勉強も、その中に入ってるんですか?」
ヴァルナの問いに、トルシィは笑顔百%で答える。
「いや、違うね。このお勉強は内緒のお勉強だ」
まん丸に開いた目を、今度はぱちぱちと瞬きする。
「ふふふ、これはね、私と君との内緒なのだよ。いいかい? 私は、本当は人ではないのだ。人の中に紛れてはいるが、ね」
「人じゃない。え? えっと、そう、なんですね。
……だからフィルとも普通にお話ししてるの? なんだか知り合いみたいなのは、もしかしたらトルシィさんもフィルも同じようなものなの?」
戸惑いながらも、必死に理解しようとするヴァルナに、うんうんとうなずいてトルシィは満足げだ。
「存在としては、まぁ似たようなものだよ」
豪快に、はっはっはと笑ったかと思うと、ふいに声を落とす。
「ヴァルナ、君にこれから知ってもらう事は一つだ。君の血脈に眠る古い古い力だ。君の遠い遠いご先祖にね、聖女と呼ばれた乙女がいたのさ」
そう話すトルシィの表情はどこか懐かしそうで、古い友人の事を話すようだった。
「君に眠る力は、とても強い。強すぎる力は、己をも傷付ける。特に、君の力はね。祝福と言われているが、むしろ私から見れば……」
そこまで言って言葉が途切れた。不思議そうに見上げるヴァルナに、トルシィは何事も無かったよう明るく宣言する。
「まぁ、聖女の力を君は持っているって事だね。さあ、歩行訓練の始まりだ。学びは一瞬。それを理解してしまえば、もう終わりという事さ」
やる気満々なトルシィとは裏腹に、フィルは苛立たし気に尻尾を振っていた。
暗い地下室に転がされている男が一人。
地上の建物とは裏腹に、地下は剥き出しの岩がゴツゴツ続いている。真冬の冷気で氷のようだ。
地上は神殿、地下は拷問室。転がされているだけで、一秒一秒、男の命は失われていく。服のそこかしこは破れ、酸素に触れた血液は黒く固まりこびりつく。
「起きろ」
俯き転がる男を蹴って仰向けにさせると、ローレルは見張りの者は下がらせた。
「そろそろ体も限界だろう。誰の命令でここへ来たか、言う気になったかい?」
猿轡を噛まされてヒューヒューと息をしていた男は、それでも口角を微かに上げて見上げた。這い蹲る地から見上げた視線の先には、神殿の裏仕事を任されている時の姿をしたローレル。黒装束に身を包み、無慈悲に男を見下ろしている。
ローレルにとっては十年近く馴染んだ装い。初めて命を手に掛けたのは、五歳の頃。
獣人の五歳は人間の十歳程に育つ。しなやかで俊敏な体躯は、暗殺にうってつけだ。万が一しくじったとて、子どもの見た目で油断を誘える。
生きる為に、彼もまた必死だった。守ってくれるような普通の親はいなかった。養い親から与えられる生き方に選択肢は無い。
生きるだけで、精一杯。生きるだけで、汚れていった。
「殆ど魔力を使い果たしているらしいね。間抜けにも神殿の裏庭で行き倒れたって? まあ頑張ったようだけど、そこで力尽きたのは残念だったね。はてさて、一体どこの子犬に噛み付かれたのかな」
そう口にした途端、男がギョッとして物言いたげにローレルを見上げる。その反応に、ローレルの口角が上がった。
「どうしてあの子を狙ったんだ? 無駄な言い訳は不要だ。狙いがあの子なのは分かっている。持ち物からして、神殿に属する人間では無い。そう、例えば、王侯貴族の飼い犬といった所か?」
わざわざ口にして聞かせてやり、ふむと考え込む仕草をするローレル。言い当てられる一つ一つに、床から見上げる男の顔が歪む。
「当たりかな、それとも苦しさが増してきた? だろうね。君に使った毒は、じわじわと血流を巡り蝕んでいく。息苦しいね、まだ生きている証拠さ」
男の近くにしゃがみ込むと、視線が定まらなくなってきている男の顎を掴み上げる。無理やり上向きにされて、微かなうめき声が漏れた。
「言え、誰に雇われた。あの子の存在はまだ公にしていない。どこから知った」
問い詰める指先に力がこもり、その爪が猛禽類のように鋭く伸びていく。男の顎がミシリとなって、頬に食い込んだ爪が赤く染まった。
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