第29話 始まりは冬の夜

 「そう、もっと力を抜いて、私に身を任せなさい。怯える事は無い。未知を恐れるは人の常。つまり学べば良いという事だ。さぁ、ヴァルナ、震える一歩を踏み出そう」


 トルシィの中性的な声音が、ヴァルナの頭上から降ってくる。

 ベッドに腰かけたトルシィは、己の膝に乗せたヴァルナを後ろから抱えるように支えていた。子ども特有の細くてサラサラな黒髪が、後ろから抱きしめるトルシィの頬に触れる。

 何を言っているのか半分以上よく分からない不思議な自己紹介の後、トルシィに言われるがまま、ヴァルナはお勉強とやらに励んでいた。


「はい。えっと、集中して、トルシィさんが流してくれる力を感じ取る。そうして、自分の中に流れる力に気付く。集中。集中」


 ギュッと目を閉じて、ヴァルナは繋いだ手に力を込める。手に力を込める必要は無いが、なんとなく力んでしまうのだ。

 もっと小さい頃、お父さんのお膝にのったみたいに膝上に乗せられた。かと思うと、互いに前を向いた状態で、後ろから両手の下に大きな手を差し入れられた。下から掬い上げるように、トルシィの手がヴァルナの小さな手を包み込む。

 もう八歳、流石に恥ずかしいと降りかけた時、手に不思議な何かを感じた。


 それは魔力みたいなものだとトルシィは言う。魔力みたいだけれど魔力じゃない。じゃあなんなのかと聞けば、今は知らなくていいものだよとはぐらかされた。


 トルシィの力を流される事で、自分の中に眠っている力を起こそうと言う。力に触れられる事で、自分の中の力に気付き、それを自在に引き出せるようにと。

 言葉で言えば単純だ。ポンと触れられて、触れられた事によって、自分という存在に気付けと言われているようなものだ。


 まるで挨拶みたいだとヴァルナは思った。一人では出来ない。誰かにおはようと言われて、自分もおはようと返して、そうするとなんだか少し元気な気持ちが引き出される。今日の私がここに居るんだと、そんな気がするのだ。


「あっ……」


 頭の中で寄り道をしていると、ふいに体の芯が温かくなってきた。それは少しずつ体の先へと広がっていき、繋いだ手に到達する。


「そう、良い子だ、ヴァルナ。よく出来たね」


 良く出来ましたと、後頭部に軽くキスされて思わず振り返る。見上げれば、優しく微笑むトルシィが片手を放して頭を撫でてくれた。


「素直な良い子だ。……あの子によく似ている」


 頭を撫で続けながら、優しいのにどこか苦しそうな笑顔で呟いた。あの子って誰の事って聞きたかったけれど、そうするともっと苦しめる気がしてヴァルナは聞けなかった。

 部屋の扉がやや強めにノックされたからだ。


「ヴァルナ! 僕の代わりに世話役が決まったって聞いたんだけど!」


 ノックの音とほぼ同時に扉が開き、少し息を切らしたローレルが部屋へ入ってきて固まる。


「やあ、少年。フォルテから話を聞いたのかな。ふふ、残念だったね。役者変更。君は舞台から降りるんだ」


 フィルに対するのと少し似ている、どこか揶揄うような口調で言い放ち、後ろからギュッとヴァルナを抱きしめて見せた。

 そう見せかける割に全然苦しくはなく、実際は抱きしめる振りだけで体の間に隙間があった。

 これも揶揄う為にわざと見せてるんだなと、ヴァルナは呆れながらトルシィを見上げた。

 やや咎める視線に気付いて、微かに目尻を下げるトルシィ。なんだか無言で以心伝心しているように見える二人に、ローレルはなんとも苦虫をかみつぶしたような表情になった。


「フォルステライトから聞きました。なんでも、王都での高位神官様だそうですね。結界や守りを与える防御魔法に長けていらっしゃる為に、ヴァルナの警護を兼ねた世話役になられたとか」


「そういう事だ。分かっているのなら、そうピィピィ小鳥のように喚かないでくれ。それとも、餌を突っ込まれなければ口を閉じられないとでも?」


 僅かに混じった侮蔑に、ローレルはスッと表情を消した。潮が引くように、先程までの勢いは失われて、冷たい声音を吐く。


「大変失礼致しました。突然の事に驚き、未熟さ故にお騒がせした事をお詫び申し上げます」


 頭を垂れて謝罪し、踵を返す。扉に手をかけ、出ていく寸前でヴァルナは思わず声をかけた。


「ローレルさん! あの、ありがとうございました」


 その言葉に、半歩部屋から出たまま、動きを止める。

 ヴァルナはトルシィの腕から抜け出して、ローレルへ駆け寄った。振り向かないローレルの背に、後一歩の距離で立ち止まり、言葉を重ねる。


「私、ローレルさんが居てくれなかったら、どうしたらいいか分からなくて……あの夜の森で、一人ずっと泣いてたかもしれない。安全な所へ連れて行ってくれるって、ローレルさんの腕があったかくて、抱っこしてもらった背中があったかくて、凄く安心出来たんです。私、このご恩は絶対に忘れません。ありがとうございました」


 ぺこりと腰を折って感謝を告げる。視線が外れた一瞬だけローレルはヴァルナへ視線を向けた。

 目は口ほどにものを言う。言えぬ言葉を視線で刻み込もうとするように、想いの込もった眼差しは、けれど何も語れない。

 ヴァルナの視線が再び向けられる前に、廊下へ向き直りローレルは無言で行ってしまった。

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