第22話 始まりは冬の夜

 一日の雑務を終えて、ローレルは書類を片手に自室へ急いでいた。

 ここ数日、思ったよりも雑務が多くてヴァルナを放置気味になってしまった。神官見習い達に、彼女の世話を宜しくと頼んではいたが、時間がかかり過ぎだ。もう数日会えていない。

 まったく、これだから書類仕事は苦手なんだよ。フォルステライトから手懐けるよう言いつかっているというのに。


 ローレルは内心で毒づきながら、薄暗い夜の廊下を進む。ふと、曲がり角から足音が聞こえてきた。

 少し速度を落としてぶつからないように気を付けるが、視線の先には誰もいない。おかしいと思った時には、自分のお腹辺りに柔らかいものが飛び込んできた。ぶつかる寸前で半歩下がって見やると、ヴァルナだった。


「あっ、ローレルさん」


「おっと、ヴァルナちゃんか。こんな時間にどうしたんだい」


月明かりが差し込む薄暗い廊下を、ローレルは灯り無しで歩いていた。彼には必要ないから。

 だけどヴァルナは違う。人間には、この薄明かりではよく見えないだろう。ランタンは貸し与えているが、この少女はどうにも使うのを惜しんでいるようだ。


「あの、食器を返しに行ってて、少しだけ寄り道して、ハーブを貰ってきたんです。えっと、少しなら、自由にとっていいって聞いたんです」


 どこか慌てた様子で話すヴァルナに、ローレルは予備で持ち歩いている小さな魔石の欠片を取り出して、少しの魔力を込めると手渡した。


「手を出してごらん。こんな暗い中を灯りも無しに、こけてしまうよ。ほら、これでランタンの代わりになるから、使って」


 ローレルの大きな手から渡された魔石の欠片は、ヴァルナの手の中で優しい灯りを灯していた。


「ありがとうございます。次から、気を付けます」


「うん、そうだ、やっと仕事が一段落ついたから、良ければ明日は買い物に行こう。着替えとか色々と必要な物を買わないとね」


 今のヴァルナは、食堂で下働きをしているおばさんがご厚意でくれた、おばさんの子どものおさがりを着ている。ここには子どもの着替えなんて無かったからだ。


「はい、ありがとうございます」


 そう答えるヴァルナの表情は、嬉しい中にも困ったような悲しみを含むような、複雑なものだった。

 気にはなったが、もう夜も遅い。また明日ゆっくり聞けばいいだろうと、ローレルはそのまま部屋へ送るとヴァルナと分かれた。





 自室に戻ったヴァルナは、ベッドにぱたりと倒れこむように寝転がった。取ってきたばかりのハーブを一つ千切る。レモンに似た爽やかで気分がスーッと晴れそうな香りが、弾けるように部屋へ広がった。

 けれど、ヴァルナの気持ちは晴れてくれない。


 着替え。日用品。嬉しい。だけど、悲しい。


 まだ、当分、帰れないんだ。着替えや日用品を新たに買う程には、当分ここで過ごすという事なんだ。そう、分かったから。


 いやいや、ローレルさんのご厚意で買って下さるのに、あんな態度、良くなかったわ。反省ね。

 あの小部屋の事もお話したかったけど、なんだかお疲れみたいだったもの。明日、お買い物をしながら、その時に話せばいいや。


 半分降りてきた瞼を開けて、寝支度をするとベッドへ入った。






「わあっ! 凄いわ、まるでお祭りみたい!」


「そう走ると危ないよ」


 丁度、土の曜日で仕事は休みの人が多い。小さな田舎の村しか知らないヴァルナには、休日の街はお祭りのようだった。


 煉瓦で舗装された赤茶色の広場では、大道芸で小銭を稼ぐ人や露店販売が立ち並び、行き交う人はめいめい己の楽しみを求めて賑わっている。


 ヴァルナとローレルも、そんな中の一組だ。フィルはお留守番。可哀相だけど、お店でお買い物をするのに、犬連れだと入店を断られる事もある。


 大衆向けの店で数着の着替えと日用品を買い、広場で昼食をとる事にした。


「はい、ヴァルナちゃんは甘めが好きだからマスタードは無しにしといたよ。それと、この辺りでは良く飲まれてるハーブ水」


 ベンチで待つヴァルナに、近くの露店販売で美味しそうな匂いをしていたパンを渡す。パンの真ん中に切れ目が入っていて、中には肉や野菜がたっぷり。何種類かある中から、好みのソースを店主がかけてくれる。

 ハーブ水はこの街では誰もが常飲している物で、この土地の特産品のハーブが使われていた。


「ありがとうございます。わぁっ、良い匂い」


 出来立ての暖かいパンを両手で持ち、満面の笑顔でローレルが座るのを待つ。視線はパンに釘付けだ。

 ローレルが隣に座ると、元気よく、いただきまーす! とかぶりつく。


 他愛の無い話をしながら昼食をとり、ローレルは観察していた。


 本当に予想外に逞しい子だな。両親に愛されて教育も受けて、ぬくぬく育ったよう見えるが、それにしては現状であっという間に馴染み、元気なようだ。

 両親の安否も分からず、そろそろ泣きつかれるか喚き散らしてもおかしくないのに。


「ごちそうさまでした。とっても美味しかったです」


「ああ、うん。そうだね」


「あの、ローレルさんは、図書室へはよく行かれるんですか?」


 食べ終わり包み紙を片付けると、突然神妙な顔をして話し出すヴァルナにローレルは目を瞬いた。


「え? 図書室? ああ、うん。調べものをする時には使うけど、普段は行かないかな」


「そうですか、あの、いつもこの分所にいるんですか?」


「んん? いや、神殿の仕事であちこち移動をするからね。僕はここの分所専属の勤めっていう訳でも無いし、いつもは居ないよ」


 そうですか。と視線を落として少し考え込むヴァルナに、ローレルは水を向けてみる。


「僕は移動が多いけど、暫くはここでの仕事があるから急にいなくなったりはしないよ。図書室で読み終えたい本でもあったのかな?

 あそこに置いてある本は難しい表現も多いし、文字を読めるだけでは分からない事もあるだろう。分からない事があれば、一緒に辞書で調べてみようか。

 その、僕はあまり本が得意じゃなくてね、本好きなら、ヴァルナちゃんの方が良く分かるかもしれないな」


 はは、と力なく笑うローレルに、ヴァルナは身を乗り出してぐっと近づく。


「え? あの、ヴァルナちゃん?」


 思わず身を引きかけるローレルに、ヴァルナは片手を口の横へ立てて、内緒話の仕草をする。


 有無を言わさぬ眼に、上半身を傾けて屈んで耳を貸すローレル。


「あのね、あのですね。図書室で秘密のお部屋を見つけたんです」


 小さな声でこしょこしょと話すヴァルナの吐息が、耳にくすぐったい。


「それで、そこにあった本を読んでみたら、内緒の秘密の暗号で書かれていたんです」


 獣人であるローレルは人より感覚が敏感で、こんな内緒話でなくとも小さな声で囁いたとて聞こえる。


「まだ何冊か読んだだけなんですけど、他の本とはなんだか違う感じがして、秘密基地に隠されていたみたいなの」


 話しながら興奮しだしたのか、どんどんヴァルナの口がローレルの耳に近付いて、話す唇が耳朶にかすりそうだ。


「書かれている事も、本によって全然違ってなんだか色んな宝物をいっしょくたに集めたみたいなの。今、読みかけの本では、魔力による植物の育成促進の事を書かれていて、そんな本他ではあまり見た事無かったわ」


 いつしか敬語も消えてしまったようだ。流石に限界を感じたローレルが、上体を逸らして距離を取る。


「分かった、分かったから。その、僕は耳が良いから、そんなにくっつかなくても聞こえるよ」


 頬が熱いのを感じた。他人にこれ程近寄られた事は無かった。

 いや、子どもなのだから、子どもは距離が近いものだろう。ローレルはそう己の動揺を落ち着かせた。

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