第16話 始まりは冬の夜

 村の入り口から少し離れた場所。踏みしめられただけの田舎道が続いている。その道を少し外れた繁みに隠れて、ヴァルナは座り込んでいた。

 ちっちゃな手で、ローレルがかけてくれた外套をぎゅっと掴む。心細げなヴァルナを安心させるように、膝上のフィルが軽く尻尾を振って顎を舐めてきた。


「ありがと。だいじょぶ、大丈夫だよね。こわくない、こわくないよ」


 小さく声に出してみる。不安な気持ちが溢れそうで、蓋する代わりに大丈夫だって言ってみる。そうやってちっちゃく蹲ってたら、暗い夜道をひっそりと馬を引いてローレルが戻ってきた。


「ごめんね、心細かったろう。まず、ここから少し離れよう。見つからない程度に離れたら僕が後ろから抱えていくから、馬上で寝ていられるよ。それまで頑張れるかい?」


 荷物は鞍の後ろに括り付けて両手の空いたローレルが、ヴァルナを軽々持ち上げての鞍上に乗せる。


「はい、大丈夫です」


 頷くヴァルナに【良く出来ました】といった笑みを見せてローレルは足を進めだした。

 葦毛の立派な馬は大きくて、初めて乗る馬の高さにヴァルナはヒュっと息をのんだ。馬上の視線は、背が高いローレルよりも更に高い。

 フィルを抱いたままでは馬が嫌がるかと思ったが、よく慣らされている賢い馬は大人しくローレルに引かれるまま足を進めていった。


 見つからないようにひっそりと進む馬上から、綱を引き歩くローレルを見下ろして、ヴァルナは不思議な人だなと思った。梟に変化した瞳の事は、気になるけれどなんとなく聞けないまま。

 ローレルの着ていた外套はヴァルナに着せてくれた為、町へ忍び込む時には寒そうだったローレルだが、荷物を取って戻った今は彼も外套を着ている。

 なんだか神父様が着る様な黒と白の外套だなと思った。それが、よく似合っているとも。


 町から少し離れて、馬を駆けても聞こえやしないだろう辺りでローレルも馬上に乗ってきた。後ろから抱え込むようにして手綱を握るローレルは、なんだか大きな体に包み込まれるようで安心感に包まれていく。


 背中があったかい。それが、こんなに安心出来るだなんて、守られていると実感出来るなんて。なんて居心地が良いぬくもりだろう。


 そんな風に思っているうち、気付けばヴァルナはうつらうつらと眠り込んでいた。


 眠り込んだヴァルナの首がこくりこくりと揺れるのを見て、ローレルはそっと自分の胸へもたれさせた。

 僅かに上体が傾いで、大事そうに腕に抱かれたフィルがもぞもぞと頭を出して視線が合う。


「おっと、大人しくしててくれよ。落ちそうになるなら、紐か何かで縛らないといけなくなるぞ」


 ヴァルナに対してよりも若干雑な話し方になるが、こちらの方が素に近い。そんなローレルを、まん丸の紅い瞳がじっと見つめてくる。


「なんだ、君、本当に人間の言葉が分かるみたいだな。

 ……あれ? 霞んで良く見えないけど、もしかして魔力を内包してる? ただの犬じゃあないのか。まさか、神獣か幻獣の幼体かな」


 まさかね、と冗談交じりっぽく呟きながら、ローレルの瞳が暗闇で輝く。瞳孔がキュッと締まり、フィルのじっと見据えた。

 闇の中で金色に輝く瞳に、フィルの真実の姿が霞んで重なり映る。

 雄大で勇壮で勇猛な獣。月明かりの下、輝く毛並み。鋭い眼差しは何物をも断罪する刃の如く。そんな伝説の獣の姿が重なった。

 けれど、どうにも霞んでしまってはっきり視えない。いつもならば、この獣化した瞳ではっきり視える筈なのに。こうも霞んでしまう事は初めてだった。


 その言葉に反応するかのように、それまで大人しく抱かれていただけのフィルが口を開く。矯めつ眇めつフィルを見極めようとするローレルの耳に聞こえたのは幼い獣の吠え声ではなく、地の底から凍えるような重く深い声だった。


「なんだ、お前。その瞳は人のものではないな。雑ざり者か」


 侮蔑の混ざった言葉に、ローレルの肩が微かに揺れた。


「ふぅん? 俺の姿が視えるのか。いや、その瞳ではせいぜい霞んで浮かぶ程度だろうな」


 フィルのまん丸で愛らしかった瞳が、重なって視えた通りに鋭く細められる。人の言葉が紡がれ獣の口角は、嫌味に歪んで持ち上がった。

 突然の変貌に、動揺しつつもヴァルナを落とさぬようしっかり抱きかかえなおす。が、驚き咄嗟に口から出たのはなんとも間抜けな問いかけ。


「なっ、どうしてっ」


「どうして? 俺の姿が多少なりとも視えたんなら、解るだろう? 俺の本来の姿。尤も、今はまだ力が完全に戻っていないがな」


 些かつまらなそうに吐き捨てる言葉が、ローレルの脳に浸透するまで数秒かかった。

 そう、視えている。真実を見抜く瞳に映る、その姿から想像するに思い当たるのは唯一。伝説の獣、フェンリル。けれど、それは存在しないはずだ。そう伝え聞いている。


「ま、お前が何をどうしようがどうでもいいがな、俺は。ただ、このガキに何かあるとアイツが煩い。お前がこのガキの親をわざと見捨てた事、俺には当然分かっている。アイツはまだ起きたばかりでボケっと見過ごしたようだが。ったく。わざわざこのガキに教えてやる気はないがな、今の所は」


 フィルの言葉に、ローレルの瞳から動揺が消えて酷薄さを湛える。どうやら、目に映るものだけが全てではないようだ。だとすれば己のすべきは一つ、情報を収集し見極める。


「へぇ、君もとんだ猫っかぶりだね。いや、犬か。それで? アイツって、もう一人というか一匹君はどこかな。

 ……いや、そうか。そう言う事か。今の君じゃ、簡単には出てこれないみたいだね。今は、月光のおかげかな? 君の中にいるのか。それで、どうしたいんだい? 君は」


 瞳に全魔力を集中してフィルを視ると、重なっているのは二つの輪郭だと分かった。まるで魂が二つあるように、眠るもう一つの魂が視えた。

 張り付いたような笑顔で問いかけるローレルに、フィルはつまらなそうに鼻を鳴らす。


「はっ、それをお前に言ってどうなる? 馬鹿かお前。取り合えず今は何もする気はねぇ。

 俺に解ってんのは、お前がクソ野郎だって事だけだ。お前がどうしようが知らねぇ、勝手にしやがれ。ただ、このガキに手ェ出すってんなら、覚悟はしとけよ」


「ふむ、警告か。肝に銘じておくよ」


 にこにこと笑顔で答えるローレルに、再び鼻を鳴らしてフィルは瞳を閉じる。そのままヴァルナの腕で眠りへ落ちたようだ。ときおり鼻をピスピスさせて眠っている。

 完全に寝入った様子を確認して、ローレルは息を吐きだした。


 参ったね、どうも。

 取り合えずは何も出来なそうだが、面倒だな。とんだおまけが付いてきたもんだ。こんなの調査書になんて書けって言うんだ。いや、そもそも聞いてないぞ。とはいえ、僕の役目ももう終わる。問題ないか。


 そう結論付けて手綱を握る手に力を込める。このぬくもり。すれ違うだけの、すぐに手放すだけの、ぬくもりだ。安心しきった顔で眠るヴァルナに、何故か息が詰まった。


 そう。

 問題ない、筈だ。

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