第15話 始まりは冬の夜

 どこかで梟の鳴く声がした。

 目の前で輝く瞳に、一瞬、ローレルから発せられたのかと錯覚してしまう。けれど、その薄い唇は薄っすら笑んだまま。


 ヴァルナは迷っていた。この人を信じていいものだろうか? いや、助けてくれたのだし、今だって紳士的な態度を崩さない。話す時は視線を合わせる為にと、長い脚を折りたたんで片膝ついてくれている。


 こんな、ちっぽけでどこにでもいるような只の子ども相手に。変なの。


 開いたままの左手へ視線を落とす。さっきは凄く熱く感じたけれど、急でびっくりしたからそう思ったのかもしれない。火傷も何もないし、そんなには熱くなかったのかも。


 再び、両手でフィルを抱きしめる。腕の中で、元気付けるように頭を擦り付けてくるのが分かった。ほんのりと、あったかい。外套も無しに冬の森へ入ったのだから、こうして座っていると一気に体が冷えてくる。

 さっきまで、ローレルが走っている間は寒くなかった。ヴァルナを抱き上げる時に長椅子へかけていた自分の外套を掴み、それで包んでくれていたから。

 大切に包みこむよう抱えてくれたおかげで、身を切るような冷たい夜風に晒されずにすんだ。


 寒さに体を震わせると、慌ててローレルが手にした外套をヴァルナに掛けた。その大きな手が、冷えた肩へかけてくれる外套の重みが、胸の奥まで温めてくれる気がした。

 寒くて心細いと、何かに縋りたくなる。頼りたくなる。突然のあんまりな出来事に、頭の中はごちゃごちゃして不安でいっぱいだ。ヴァルナは、落としていた視線を再びローレルへ向けた。


 ヴァルナに外套をかけてしまって凄く寒い筈なのに、ローレルは優しい笑みを絶やさない。

 嘘くさいと思っていた、偽物っぽいと思っていた。だけど、助けてくれた。今も、助けてくれている。

 このあったかさは、これは――嘘なの?


「あの、安全なところって、どこですか? その、また、すぐお家へ帰れますか?」


 今夜一晩どこかで過ごしたら、夜が明けたら、なんだか良く分からない誤解がとけたら、きっと。


 きっと、また、お母さんとお父さんの所へ、帰れる?

 あの小さなあったかいお家へ。

 大きな街みたいに華やかなものなんて無い、欲しいものは大体自分で作る、素朴で暮らしぶりは苦しい時もある。

 だけど、本当に必要なものは全部ある。私のお家。


 それなら、今夜一晩この人に助けてもらってもいいかもしれない。今すぐ家に帰っても、なんでか分からないけれどまた追われるかもしれない。

 事実、町の人達が凄い形相で追っかけてきていたんだもの。この人は、ローレルは、守ってくれた。ずっと優しく気遣ってもくれている。


 ヴァルナの不安気な幼い眼が、縋るようにローレルを見上げる。木の根に座っていると、ローレルが膝をついてくれていても、少し見上げる身長差だ。


 聖女様とか生まれ変わりとか、なんだか変な事を言ってたけれど、それもきっとすぐ誤解はとけるだろうし。

 何より、今の私一人じゃ何も出来ない。なんの力もない子どもが、夜の森を抜ける事だって出来ない。出来ないよ。


「心配しなくても大丈夫だよ、向かうのは近くの神殿さ。そこで保護してもらおう。襲われた事を話せば、ご両親だって助けてもらえるさ」


「そう、ですか。あの、そうですね。すみません、よろしくお願いします」


 今、頼れるのはこの人しかいない。

 真っ暗な冬の森で、置いていかれるだけでも死んでしまう。初めて見た時の違和感は、きっと勘違いだったんだ。

 こんなに親切にしてくれるんだもの。もう、疑ったりしたら失礼だわ。


 心は見えないけれど、その行動は見えるの。

 もの言わない見えない心が信じられない分からない時は、相手の行動が信じるに足るのならば、信じてあげて。

 そう、母が語った事がある。ヴァルナも、そうだと思った。


 ぎこちなく微笑むヴァルナに、頷いてローレルは立ち上がった。


「さ、そうと決まれば、急ごう。今は、見つからないよう迂回して町へ向かっているんだ。もう後少しでつくはずだから、ついたらヴァルナちゃんには隠れていてほしい。僕が町へ入って荷物や馬を連れてくるから、それで神殿へ向かおう」


「馬だなんて、そんな高価なもの……黙って連れて行っちゃダメです」


「あぁ、大丈夫だよ。元々僕が旅するのに乗ってきた馬だから。宿に預けたままなのを厩舎からそっと連れて行くさ」


 そういって、これで話は終いだと言わんばかりに、再びヴァルナを抱え上げる。落ち着いて抱き上げられてみると、改めてローレルは着痩せするタイプだと分かった。



 お父さんだって、結構逞しいのよ。狩りをしているんだから。だけど、お父さんとはちょっと違った感じで、この人もしっかり鍛えているのね。なんだか、恥ずかしくなってきちゃう。



 気恥ずかしさにほんのり頬を染めるヴァルナは、暗闇で気付かれていないだろうと安堵していた。が、梟の如く瞳が変化しているローレルにはハッキリ見えていた。

 顔に出やすいヴァルナの考えが手に取るように分かって、微かに苦笑を零す。



 聖女の生まれ変わりだなんて、どんな者かと思ったが……普通の子どもだな。多少、普通よりも利発そうではあるが、こうもあっさり信用されるとは。

 あの町の連中は、実に都合良く動いてくれた。

 町で暴徒と化した奴らに全員で追われた時は、数の暴力に焦ったが。それも結果として、疑われもせずに少女の懐へ入る事が出来た。いや、最初は少し警戒されていたか?

 だが、あの短絡的な町の連中が暴力を見せつけてくれたおかげで、こうして完全に信用を得た。全く、これだから短気は損気というものだ。

 己を見つけたら町人は襲い掛かってくるだろうと分かっていた、だからこそ、あの時すぐにヴァルナを抱え上げた。酷い形相でこちらを睨んでくる町の連中を見て、自分が襲われそうなのかと錯覚させる為に。

 まさか、母親を地に押し倒していたとは、度し難い連中だ。おかげで、全てが都合よく動いた。



 再び、森を駆け抜けながら、ローレルは思考を巡らせる。



 町の連中に捕まっただろうあの両親は、私刑にあうか神殿の地下牢へでも送られるか。いずれにせよ、もう助かる事もあるまい。

 純真と愚直さは表裏一体だな、僕なんかを信用して助けようとするだなんて。

 そもそも、怪我だって出血こそ派手でも致命傷は受けていない。神殿の裏の仕事を任されるよう訓練された身で、いくら数の暴力とはいえ一般の町人から致命傷を受ける事はない。

 いざとなれば、忌まわしいと忌避された獣人の力を使ってどうとでもなる。今、闇夜を駆け抜ける為、使っているように。

 この血のせいで、血脈に眠る受け継いだ力が覚醒してしまったせいで、親からも捨てられた身だが、今は生きるのに役立っている。皮肉なものだな。



 チラリと視線を落とし、腕の中で信用しきった少女を見やる。その無垢な信頼に、一瞬だけ心臓に痛みが突き刺さった。少女を抱く腕に、僅かな力が込められる。



 この少女も、今は力の片鱗も見えないが、あの水晶が反応したのだ。聖女の生まれ変わりで間違いない。いずれ覚醒するだろう。

 そう生まれたが為に、己の意思とは関係なく、この少女も人生を翻弄されるのだろうか。忌まわしいと唾棄されながらも、利用価値在りと使われ続ける己のように。


 そこで、ふと我に返った。


 何を考えている? 馬鹿馬鹿しい。己のやるべき事は、与えられた任務を達成するだけだ。その後でこの少女がどうなろうと、どうだっていい。

 この、腕の中のぬくもりに罪悪感を抱くだなんて、とっくに汚れた僕がなんて図々しい。そんな人らしい感情なんて、欠片だってあるものか。



 地を蹴る足が強さを増す。少し大きく体が揺れて、ヴァルナがぎゅっとローレルの服を掴んだ。それを冷めた瞳で一瞥して、波だった心を落ち着ける。



 もう、考えるな。僕が考えた所で、この少女の先はどうにもならない。

 あの水晶、かつての聖女を捕らえる為に作られた古い縛めの欠片。聖女の血を吸った呪いの欠片。少女を見つける為にと一欠片ずつ持たされた欠片。あれが反応した瞬間に、少女の運命は動き始めたんだ。

 水晶は少女の家へ近づく程に微かな反応を示し、その導によって家へ辿り着いてしまった。直接触れると、ああも激しく反応するとは予想外だったが。


 詮無い事が脳内を巡る。いつもなら、これほど他人が気になる事など無いのに。


 町の明かりが視界に入って、そこでローレルは考えを止めた。

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