第11話 始まりは冬の夜
「あーぁ、せっかく勝てそうだったのに、またお客様なのかなぁ」
少女は唇の先を尖らせて、ぶーたれながら足元のフィルを見やった。
視線が合い、ゥオンッ! とご機嫌に尻尾を振る。
母親は外の物音で様子見に行ってしまったし、お父さんもまだ起きて来ない。ゲームはお母さんの番なのに、私は待ちぼうけだ。
椅子から降りると、フィルのもさもさした耳の後ろ毛に指を突っ込んで、ぐりぐりとかきまぜた。
キャゥゥウン。何とも言えない困ったような声を出して首を振り、前足でイヤイヤする。
「ふふふ、離してほしい? だぁーめっ」
うりうりと少女が更にあちこち毛並みに指を入れてかき回す。そんな少女の腕の中から必死に逃げたフィルは、長椅子へと避難。寝ているローレルに構わず、助走をつけたジャンプで飛び乗った。
「ぐぇっ、っは、ごほっ」
小さな子犬とはいえ、寝ている怪我人の腹の上へ飛び乗れば、それなりの衝撃だっただろう。ローレルは腹を抑えてせき込みながら上半身を起こした
「ごめんなさいっ! だめよっフィル!」
慌ててローレルの上からフィルを抱き上げながら謝ると、幾分顔色の良くなったローレルが大丈夫だと笑顔を作って見せた。
血で固まっていた薄茶色の髪は、お湯に浸した布で丁寧に拭いてやったのでサラサラだ。少し長めの髪がまるで伊達男のような細面にかかって、優しく微笑む姿には大抵のコなら靡きそうだと思った。
雑貨屋のアンなら一瞬で運命を感じるだろう。少女の五歳上、子どもが少ない田舎の村では数少ない女友達。なんでも要領よくハキハキしていて頼れる友人だが、少し惚れっぽいのが玉に瑕。
ローレルは少し大きめの口を開いて、真白で整った歯が覗き見えた。
「はは、元気な子犬だね。子犬、だよね? 見慣れない犬種だけれど。足が随分太いのに体は小さいから、本当にまだまだ生まれたばかりなのかな」
「あ、そ、そうです。えっと、まだ拾ったばかりだから、多分。犬の事は詳しくないんです」
「そうなんだ。賢そうな顔をしているし、きっとよく主人を守る良い犬に育つよ」
言葉では褒めているのに、何故かローレルの口調は苦しそうに見えた。フィルを見るローレルは誇らしげで、同時にどうしようもなく悲しそうな目だと、見ていて少女の胸がぎゅうっと痛くなった。
それもすぐに消えて、人の好さそうな笑顔を張り付けてしまう。座椅子から立ち上がると、少女の前に跪いて目線を合わせ、口を開いた。
「ありがとう、君が最初に見つけてくれたんだよね。朦朧としていたけれど、声は聞こえていたんだ。お母さんを呼んできてくれただろう? 後少し遅ければ、出血で危なかったかもしれない。本当に助かったよ」
そう言って、少女の頭を撫でようと手を伸ばし、少女の胸に抱かれたフィルが牙を剥いて威嚇した。
「フィル! ごめんなさい。どうしたのかしら」
「はは、いいよ、嫌われちゃったかな。ところで、ご両親は今どこだい?」
「えっと、ついさっき外へ出てしまいました。でも、すぐに戻ると思います」
「そうか、それならもう少しだけ話に付き合ってくれると嬉しいな。僕の名前は話したよね。君の名前も教えてくれるかな?」
「えっと、名前は、あの……ヴァルナと言います」
「ヴァルナか、良い名だね」
ローレルがそう笑んだ時に、玄関の方で大きな音がした。何かの倒れる様な音。もみ合う音と怒りを含んだ声。
知らず知らず、フィルを抱く少女の腕に力が籠る。固まったのは一瞬だった。異変を感じたローレルが、突然ヴァルナを抱き上げたからだ。
「えっ? わっ、降ろしてっ」
手足をバタつかせようとした時、ドアが開いて見知った筈の顔が飛び込んできた。
肉屋のおじさんだ。
たまに親が街へ連れて行ってくれる時、必ず帰りに肉屋のおじさんの所で買い食いをするのだ。熱々のクロケットを買って食べながら帰るのだ。
いつもニコニコ笑顔で、ムキムキとした腕を振るって肉をぶんぶん切り分けるおじさん。ヴァルナが行くと、娘のように可愛がっておまけしてくれるおじさん。
それが、今は悪鬼の如く恐ろしい形相をしていた。
「ヴァルナ! 乱暴しないでっ!」
悲鳴のような母親の声が、地面から聞こえた。
どうして、お母さんが地面に倒れているの?
どうして、町のおじさん達が怖い顔で手に恐ろしい物を持っているの?
突然飛び込んできた光景が、脳内を巡る。ただ、それは悠長にその場で思考を巡らせた訳ではない。
肉屋のおじさんが視界に入った瞬間、目の前の光景に動けないでいるヴァルナをローレルが抱えたまま走り出したのだ。ほんの一瞬も待たずに、まるで外の物音でこうなる事は分かっていたかのようだ。
ヴァルナはローレルの肩越しに、おじさん達が追いかけてくるのを茫然と見ていた。
玄関から家の奥へと駆け出す。ローレルは間取りなんて知らない筈なのに、躊躇う素振りもなく走って手近なヴァルナの部屋へ入った。入ると、何か呟いて後ろ手にドアノブに触れて、すぐさま窓へと向かう。
窓を全開にして、そこから外へ脱出しようとしていた。
「ちょ、ちょっと待って下さい! お母さんが!」
はっとしたヴァルナは抵抗しようとしたが、しっかり抱えられて逃げられなかった。
あんなに大怪我していた様子だったのに、ひょろ長く見えたのに、抱えられると固い胸板を感じた。手当の時は母が体の具合を見ていたので、着替えを取りに行ったり、洗面器の湯を張り替えたりしていたヴァルナは見ていない。
「ごめんね。だけど今は、まず君の安全を確保しよう。彼らの様相は異常だよ」
ヴァルナを先に窓から外へそっと降ろして、すぐにローレルも長い体を器用に折りたたんで窓枠を軽々越えてきた。
確かに、明らかに常軌を逸した表情。手にした得物は、幼い脳裏にも暴力を思い描かせる。
「そうなんですけどっ! わわっ」
「少しだけ口を閉じていた方がいいな。舌を噛みたくないだろう?」
あんなに恐ろしい形相で追いかけられているのに、子どもとはいえヴァルナを抱えたままなのに、息を切らす事もなく涼し気な顔でローレルは森の中を走っていく。
それに驚きながらも、ヴァルナは大人しく黙って、胸のフィルをきつく抱きしめた。
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