第10話 始まりは冬の夜

 少女の母がリビングへ戻ろうとした時、寝室から物音がした。夫が起きたのかと振り返り部屋へ入ってみれば、ベッドの上で呻いている夫と目が合う。


「あら、あなたがそんな風にしているのは珍しいわね。二日酔いかしら?」


 部屋のローテーブルに置かれた水差しからコップへ水を注いで、夫へ差し出す。ベッドへ腰かけていたずらっぽく笑う妻に、夫は水を受け取ってバツが悪そうに目で謝る。


「うん、いや、少し飲み過ぎたな。いや、今日は大安息日だし、問題ないだろう? ちゃんと祈りは捧げるさ」


 言い訳して水を飲み干す。肌蹴た寝巻の胸元から、狩りで鍛えられた大胸筋が上下して見えた。


「もう、お昼前ですよ。起きたのなら着替えて顔を洗っていらして」


「ああ、うん。ベッドでも祈りは捧げられるから。もう少しだけ寝ていてもいいかい?」


「あなたが二度寝だなんて、珍しい。……でも、そうね。今年は特に忙しかったものね」


 今年はいつもより森が騒めいて、夫は何かと忙しそうにしていた。その分貯蓄も多く出来たが、疲れは溜まっているのだろう。


「すまないな、もう少しだけ休んだら起きるよ」


 軽く触れるだけ唇を交わしてコップを妻へ渡すと、夫は再びベッドへ体を横たえてしまった。仕方ないわねと、掛け布団を丁寧に直してやってから部屋を後にする。


 リビングへ戻ると、娘がキラキラした目で食卓に置かれたさくらんぼの甘煮を見つめていた。

 砂糖で甘く甘く煮詰められたさくらんぼは、トロトロと魅惑的な艶めきを放って娘の瞳を捕らえて離さない。暖炉の火に照らされ揺らめく輝きは【私を食べて】と誘惑しているようである。


「お母さん、持ってきたよ。お昼のパンに乗せる? 紅茶に落とす? そのまま、一つだけ食べちゃう?」


 そわそわして聞いてくる娘に、母は小皿を取り出して置いてやった。ひときわ大きな一粒を匙で掬うと、娘は待ちきれないように椅子で足をバタつかせる。そんな些細な仕草が、お行儀悪いと思いつつも愛おしい。


 母娘で仲良く一粒ずつ甘味を楽しんで、祈りを捧げた。

 今年の大安息日は、どうやらみんなお寝坊さんな安息日らしい。夫も客人も寝て過ごしている。けれど、たまにはそういう日も良いかもしれない。娘が生まれてから、ずっとずっと祈ってきた。

 今日は、本当にゆっくりと安息の時間を過ごしても良いかもしれない。


 客人を起こさないよう静かに昼食も済ませて、娘が飾ってくれた雪待草を眺めながら娘の遊びに付き合った。


 気付けば窓から、夕焼け色が差し込み始めていた。冬で日が落ちるのが早いとはいえ、そろそろ夕飯の支度をしなければと椅子から立ち上がる。


「いくらなんでも寝過ぎだわ、ちょっとお父さんを起こしてくるわね」


 ゲームで長考している娘に一声かけて、母親は寝室へ向かった。夫を起こせば、流石に寝過ぎたと反省して、飛び起きバタバタ身支度に走る。大きな体を丸めて勝手口から庭の井戸へと顔を洗いに行った夫の跡には、慌てて脱ぎ散らかした服が点々と投げ出されて足跡のようだ。ベッドのシーツも鳥の巣のようにぐちゃぐちゃなまま。

 溜息一つついて、それらに手を伸ばした。






「おそーい、ふふふ、今日こそ私の勝ちだよっ!」


 夫を起こして寝室を整えたり掃除をしてからリビングへ戻ると、娘が頬杖ついて楽しそうにニコニコしている。子ども相手とはいえ手加減せずに遊んでいたものだけれど、これはついに負けちゃうかしら? と母は苦笑する。


 向かい合って椅子に座ろうとした時、何やら外で人の話し声が聞こえてきた。


「変ね、滅多にお客様なんてないし今日は大安息日なのに……」


 来客が続くだなんて、おかしな日ねと小首を傾げながら玄関へと向かう。一歩外へ出ると、庭の井戸の方から言い争うような声がした。


「だから、知らないと言っているだろう? 誰も家に来ちゃあいない。みんなあの噂で不安なのは分かるが、まだこの辺りには来ていないようだし、そんな旅人一人に殺気立たなくても……」


 玄関から建物の影に隠れて聞き耳を立てると、宥める様な夫と殺気立っている数人の声が聞こえてきた。


「噂なんかじゃねぇ! 本当に出たんだ! 今朝、粉引き小屋んとこの娘が三日目になった! あの旅の男が街に来た日の夜に熱を出してんだぞ! アイツが噂の病気をここまで運んできちまったんだよ!」


「そんな……それは、町医者に見せたのか? まさか本当にそんな流行り病が……」


「教会のお告げで言ってたじゃねぇか! 今年八歳になる大安息日生まれの子がいるってな。ソイツのせいだ! 大安息日に生まれちゃあなんねぇ。産婆だって仕事だ。なのに禁を破った奴がいるんだよ! ソイツのせいで流行り病なんかが出ちまった!」


 視界が揺れた。体が震えた。息が止まるようだった。少女の母親は、全身に冷や水を浴びたように体が震えるのを感じた。

 自分達の事だ。流行り病だなんて話は初耳だが、夫が昨夜妙に飲み過ぎていたのは、その事を知っていたからかもしれない。不安を酔いに任せて忘れようとしたのかもしれない。私には不安にさせまいと飲み込んだのだろう、知らせぬようにと。


 そして夫は知らないが、見知らぬ旅の男を助けてしまった。


「村中探したが、見つかんねぇんだ。なぁ、家の中を見せちゃあくんねぇか」


「それで気が済むなら構わないが、そんな殺気立っていては妻も娘も怯える。少し落ち着いてくれ」


 あくまでも落ち着いた声音で話す夫に、少し反省したのか落ち着いた様子で言葉を交わすのが聞こえる。それを耳にしながら、少女の母親は激しく動揺した。


 どうしよう、どうしよう! 家の中に入られては、すぐに見つかってしまう。ああ、あの酷い怪我は、村の人に追い立てられた時に負ったのか。


 震える手で家の中に戻ろうとした時、庭の井戸の方から夫と連れ立って数人の男達が玄関へと来てしまった。


「あ、み、皆さん、こんにちは」


 真っ青な顔で震える様子に、夫は訝し気な顔をする。その後ろで、男達が角材やら鋤やらを手にしているのが目に入った。


「奥さん、真っ青だが大丈夫か? もしかして、熱の出始めじゃぁねぇか? 大変だ、今、良くない病が流行りそうなんだ。お宅は村から離れてるからまさかまだかかっちゃあいねぇと思うが」


 普段は気の良い村の人達だ。突然の未知の病に血が上っていたようだが、落ち着けばちゃんと話せる普通の人だ。


「あ、そ、そうなの。いえ、なんでもな……」


 玄関を背に、なんとか笑顔を浮かべようとした時、鋳物屋の男が声を上げた。


「おい! そりゃなんだ! 血の跡じゃねぇのか!」


 言われて振り返れば、ドアの外側には赤黒い血の跡がついていた。


「あのっ、これ、は……」


 舌がもつれて話せない。弁解しようとすればするほどに、思考は砂嵐のように耳の奥で吹き荒れた。


「待ってくれ! これは何かの誤解だ、そうだろう?」


 夫が少し慌てたようにして妻を庇おうとするが、妻の前へ来ようとするのを男達に阻まれていた。先ほどまでの一度は落ち着いたはずの殺気が再び擡げるのがありありと分かる。


「どけっ! やっぱり隠してやがったなっ!」


「っあ! やめてっ!」


 男達の先頭に居た、肉屋の旦那が太い指を伸ばす。ドアの前で怯える細腕を掴んで、振り払った。大きな肉切り包丁を振るう男の逞しい腕は、かよわい女の二倍はあるだろうか。踏みとどまる事など出来もせず、強かに地面へ体を叩きつけられた。

 妻を守ろうと前へ出た夫は他の男達に地面へ引き倒された。倒れた体を踏みつけに、角材やら手にした得物で押さえつけられる。


 興奮した男達が荒々しくドアを押し開けるのを、突然襲い掛かってきた暴力と激情を前に、純朴な夫婦はただただ茫然と地面から見上げていた。

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