第9話 始まりは冬の夜
「へぇ、それじゃあ王都の方からいらしたんですか。随分と旅をなさっているんですね」
ローレルから空の食器を受け取りながら相槌を打ち、少女の母親は部屋の隅に置かれた籐籠に手を伸ばした。食後の果物に林檎を一つ取って、果物ナイフでするする剥き始める。それを眺めながら、ローレルは人好きのする笑顔で話し続けた。
「そうですね、主の使いでこの辺りにしか生えていない薬草なんかの採取に来たんですよ。それがついつい森の深くで襲われて、なんとか逃げたはいいけれど道も分からず。……もう人家は無いものと諦めかけた所で、煙がたなびいてるのを目にしたんです。本当に、お陰様で助かりました」
少女の母は林檎を切ってローレルの前に置くと、大変でしたねぇと目を細めて彼の語る内容へ労わりの言葉をかけた。暖かい言葉へ軽く頭を下げて、林檎の皿を受け取るローレル。
「今日は大安息日ですから、様子見で街を散歩だけして宿に戻るつもりでしてね。殆ど手ぶらに近い状態で出掛けてしまい、お礼も出来ずにすみません。落ち着いたら、改めてお礼をさせて下さい」
しおらしい態度で申し訳なさそうに眉を寄せる。少女の母は口元を上げて笑んで見せた。
「まぁまぁ、かまいませんわ。こうしてあなたの手助けが出来たのも、きっと聖女様のお導きでしょう。食事が済んだら、少し休まれるといいですわ。大丈夫に思えても、出血の後は体に力が入らないものですから」
林檎の皿が空いたのを見て、暖炉前の長椅子を指す。それを視線で追って、ローレルは感謝を述べると大人しく長椅子へ体を沈ませた。大きな長椅子は背の高いローレルが体を預けても十分な余裕がある。
普段は少女の母と少女が身を寄せ合って座り、本の読み聞かせをしていたりする長椅子だ。大人の男でもゆったりと寛げる。
ローレルが瞳を閉じたのを見て、少女の母はそっと毛布を掛けてやった。
洗い物をして、昼食のスープを温める。疲れていたのか手当に安心したのか、すぐに長椅子から寝息が聞こえてきた。
それを横目に、焦げ付かないよう鍋をゆっくりかきまぜる。良かった、と少女の母は口元を綻ばせた。
夫に断りもなく知らない人を家へ招く事に抵抗はあったが、怪我人だ。それも頭に酷い怪我をして血に塗れていたのだ。
幸い、出血が派手な割に意識はしっかりしている様子で、話を聞いてみても理路整然と話せている。食事も吐かずに全部食べられたのを確認出来た。
頭を強く打った時に気を付ける事を見ていたが、取り合えずは大丈夫そうだと安堵の息が胸をなでおろす。
スープから湯気が立ち上り、両手で持って暖炉の火から鍋を降ろす。少しだけ離して、暖炉の側へ置いて蓋をした。
今日はのんびり暖炉で温めて食べられるものと、作りおいているパンや果物で楽に済ませられるわね。
そうだ、保存食の甘味もお出ししよう。食事をちゃんととれそうなら、お客様がいらっしゃるのにあまり簡素なものだけでは申し訳ないわ。
一通り予定を立てて、仕舞ってある甘露煮の瓶を取りに鼻歌交じりで地下室へ向かった。
「お母さん、お客様と一緒じゃなかったの?」
リビングを出て地下の貯蔵室へ行こうとした所で、夫を起こしに来たのか娘が寝室のドアノブに手をかけていた。
「今は長椅子で休んでいらっしゃるわ。だいぶ出血していたようだし、とにかく食べて寝るのが一番なのよ。
お父さんは起きてくるまで寝かせてあげてね。疲れが溜まっているようだったし、昨夜はいつもより多くお酒を召していたから」
「はぁい。何かお手伝いする事ある?」
「そうね。それなら、貯蔵室から好きな甘露煮を一瓶持ってきてくれるかしら。お客様がいらっしゃるのにいつものだけじゃ物足りないでしょう? 栗でも林檎でも、好きな瓶を持ってらっしゃい」
「やったっ! じゃあじゃあ、さくらんぼのでも良い?」
期待に満ち満ちた瞳を輝かせる娘に頷いて、パタパタと貯蔵室へ小走りでかける後ろ姿を見送る。
あの様子では明日の誕生日ケーキに乗せる分が減ってしまうかしら。仕方のない子と言わんばかりに、目じりを下げて愛しい後ろ姿を見送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます