第8話 始まりは冬の夜
「すみません。手当していただいた上に、暖かい食事まで」
ローレルと名乗った行き倒れの青年は、スープ皿を受け取って申し訳なさそうに頭を下げた。
包帯を巻かれた体が痛々しく、頭部のケガは血が髪の毛に付着して凝り固まっているほどだった。今のところ命に係わるような事はなさそうだが、傷口を清潔にしておかなければそこから命取りになる事は多々ある。
ドアの前で行き倒れていた彼に、少女と母親は精一杯の手当をしていた。
「いいんですよ、困った時はお互い様ですから。森の獣にでも襲われたんですか? 酷いケガで、助かったのが奇跡みたいなものだわ。ここはまだ森の入り口みたいなものだから、そんな大型の獣がこの辺りには出るなんて事無かったのだけれど」
水の入ったカップを置きながら心配そうに話す様に、ローレルは片手を軽く振ってそれを打ち消した。
「いえ、獣ではなくて、無頼漢にやられまして……はは、大して金目のものなんて持ち合わせていないのに、僕なんかを襲うだなんて見る目のない奴らですよね」
そう言って、どこか落ち着かない様子で匙を手にスープをかき回す。
そんなローレルの仕草に違和感を覚えながらも、大人の話に口を出すものではないと躾けられている少女は黙っていた。人の好い母は気付かないのか、気付いても疑いなんて抱かないのかもしれない。
「まぁ、そんな。村の人達は良い人ばかりで……こんな所まで野盗が?」
「いやいや、襲われたのは森の深い所でした。これで結構な距離を逃げて来れたもんです。地図だけ持って深くまで入ってしまったものですから。ちゃんと案内人を頼むか、安息日なんだから大人しく宿で寝ていれば良かったですよ」
散々かき回したスープを口に運んで、愚痴を零す。そんなローレルの話を、母は相槌を打ちながら聞いている。
少女は同じ卓でホットミルクを飲みながら、なんだかナナフシみたいな人だなと思っていた。
笑っているんだけど、笑ってるように見えない顔も。ひょろ長くて高い背も。擬態が得意な虫に似て見える。なんだか嘘つかれてるような、知らず知らず騙されている感じがしてしまうのだ。
いけない。よく知りもしないで人を疑うのは悪い事だって、疑うよりも信じてって、お母さんから言われてるのに。
少しだけ蜂蜜を垂らしたホットミルクを傾けて、嫌な思いをミルクと一緒に飲み込んでしまう。
【優しいには優しいが、意地悪には意地悪が返ってくるの。だから、あなたは人に優しく出来る人になって。無理する程じゃなくていい、無理なく出来る事で十分だから、優しく在ってね】
それが母親の口癖だ。
今まで、たくさん人から親切を貰ってきたから、今度は自分がそれを誰かに返していきたいのだと言っていた。
会ったばかりで、しかもケガをして倒れていた不幸なこの人を悪く思うだなんて、良くない事だわ。
空っぽになった木製のカップを置いて、少女は椅子から降りた。
「私、お部屋へ戻ってます」
お客さんがいる時は家族相手も丁寧に話すよう言われている少女は、ローレルへ行儀よくお辞儀をして部屋へ戻った。
「はぁ~」
ベッドへぽふんと倒れこむ。思いがけない闖入者で始まったけれど、今日は大安息日なのだ。のんびりする、それから忘れないようにお祈りもする日なんだ。
キャウン
ベッドへ上がれず、床で犬が寂しげに鳴いた。
「ん、ごめんごめん。おいで。君の名前もつけてあげないとだね」
ゥオンッ!
抱き上げて仰向けにベッドへ転がると、両手で抱き上げた犬が嬉しそうに尻尾を振る。
「ん~、青っぽいから、アオ!」
キューン
「あはは、ダメ? じゃあ、銀色っぽくもあるし、ギン!」
クゥーン
「んー、どうしよっかなぁ。それじゃあ……」
足をパタパタ跳ねさせて考える。犬の瞳を覗き込んでいると、夢でみた蒼銀の髪に紅い瞳を思い出した。
狼みたいに鋭い視線。整っているけれど、野性味ある面立ち。話す時に見えた牙のような犬歯。
本で読んだ神様、狼の姿をした強くて気高い名前が浮かんだ。
「フェンリル……じゃ呼びにくいから、フィル、とかどうかな?」
ゥオンッ!
嬉しそうに尻尾を振っている。心なしか、嬉しさに瞳の輝きが増したようにも見える。この名前はお気に召したようだ。
「ふふっ、決まりだね。今日から君はフィルだよ」
ベッドから起き上がり、フィルを床に降ろす。
「さ、そろそろお父さんを起こしに行こう。もうお昼になっちゃう」
そう両親の寝室へ向かう少女は、気付かなかった。名付けられた後、輝きを増した瞳に知性が宿っていた事に。床に降ろされてから、足の爪が鋭さを増した事に。
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