第5話 始まりは冬の夜

 すっかり日も暮れて、少女が寝ついた頃。使い古したランプを片手に、やっと父親が帰ってきた。

 起きて待っていた妻に、予定より遅くなった帰宅を詫びると、暖かい心尽くしの料理を口にする。

 寝間着に着替えた妻がホットミルクを飲みながら他愛もない話をして、それに頷きながら食事を済ませると少しのお酒を出してきた。


「あなたがお酒だなんて、珍しいわね。何かあったの?」


 ホットミルクへブランディを垂らす夫の様子に、向かい合って座る妻が訝し気に小首をかしげて問う。

 母と娘でそっくりの癖だなと微笑んで、夫はブランディ入りのホットミルクのカップを傾けた。

 自分のカップにも香りづけ程度にブランディを入れて勧められた妻は、豊潤な香りを口にして、夫の言葉を待った。


「町で、少し気になる噂を聞いた。

 なに、たいした事じゃない。いや、なんでも、教会でお告げがあったらしい」


「あら、教会がお告げを報せて下さるのは、喜ばしい事ではないのかしら?」


「あぁ。そうなんだが」


 そこまで言って、夫は再びカップを口に黙り込んでしまった。生来口数の多い人ではないが、それにしてもはっきりしない。少し咎めるように妻は先を促す。


「気になるって、どんな風に気になるの? なんとお告げが出たのか教えてほしいわ」


 視線をカップの揺れる乳白色へ落としていた夫は、眉間に皺を刻んでからゆっくりと視線を上げる。真っ直ぐに妻を見つめて、静かに告げた。


「今年八歳になる子ども。大安息日に生まれた子どもがいる、と。

 その子どもを必ず見つけて教会へ差し出すようにとの事だ。さもなくば、大いなる災厄が国を襲うだろうと町中に掲示されていた」


 ガゴンッ


 木製のカップが母親の手から滑り落ち、食卓の上を転がった。残っていたミルクが零れて広がった。


「あっ、ごめんなさいっ」


 慌てて布巾で拭う。拭う手が震えていた。


「大丈夫だ。誰にも知られていない。アルマには留守で会えなかったが、彼女が言いふらすような事もない。そうだろう?」


 震える細い手を、がっしりとした逞しい手が包み込む。その暖かさに、包まれた手もしっかりと握り返した。


「ええ、ええ。そうね。大丈夫よね。きっと、聖女様の御霊がお守り下さるわ」


 まるで癖のように、何かと祈りを捧げるようになった妻。娘が生まれてからだ。負い目のように、咎人だとでもいうかのように。

 何の罪でもない、ないはずだ。ただ、娘が生まれたという喜ばしい事のはずだ。しかし、妻は自分を責めていた。あの日に産んでしまった、自分のせいで秘密を抱える事になったと。


「そうだな。大丈夫だ。何も心配する事は無い」


 妻と違い、自分は全く祈りを捧げていなかったが、安心させる為にそう言った。そもそも、聖女様がおられたという事も、半信半疑だ。教会が偶像として祀りあげたただの人間がいたのではないかと思っている。

 しかし、妻のように完全に信じて心の拠り所にしている者もいるのだ。それをわざわざ否定する事もないだろうと。


「ええ、ええ、そうよ。大丈夫。大丈夫よ」


 怯えるように繰り返す妻を抱き寄せ、もう一つの噂は飲みこんだ。

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