第4話 始まりは冬の夜
村まで大人の足で片道1時間程。森の入り口にある家から、村の方へと何気なく足を進める少女。早くお母さんの所へ戻って蜂蜜湯を飲みたいなと思いながらも、なんだか気になってしまうのだ。臭いのする方へと、お父さん特製の革靴で森の小道を踏みしめる。
少し、ほんの少しだけ、何も無かったらすぐ戻ろう。
そう思いながら、遊び慣れた森を進む。今年は雪が少なく、まだ積もるような日はなかった。
冬の森は、朝なら地面の霜をサクサク踏んで歩くのが楽しいし、今日みたいに晴れた昼間はただ歩きやすい。
「なんだろう、焦げた臭いでもない、腐った臭いでもない、どっちも似てるみたいで似てない。嫌な臭い」
思い当たらないソレが何かを当てようと、思いついたまま口に出していく。ナゾナゾでもそうだ。お父さんが出してくれるナゾナゾの答えが分からない時、考えながら口に出してみる。そうすると、少し頭の中がスッキリしてくる気がした。
「うぇっ、くさぁい」
まだ家からほんの数分しか歩いていないのに、急に臭いが強くなった。木綿のハンカチで鼻を覆う。森の小道から草むらへガサガサと進むと、ソレを見つけた。
「きゅ~、きゅ、きゅぅぅぅう」
頼りなく鳴き声をあげているのは、黒いもの。べちゃべちゃしたもの。大人の握りこぶし大のソレは、草むらで震えていた。ソレが蹲る周囲は、まるで沼のようにドロドロとしている。
「ひっ……なに、これ」
思わず生理的嫌悪感を覚えるような臭いと見た目。爬虫類のようにもみえるヌメヌメとした質感の、それでいてべちゃべちゃと粘液状に蠢いている。どこにも口が見当たらないが、確かにソレは鳴き声をあげていた。
怖くて後ずさった少女の靴が、小枝を踏んだ。
パキンという小さな音を、耳も無いソレは聞きつけたようだった。
地面の上でぐちゃぐちゃに蠢いていただけのソレが、確かな意思を持ってキュッと伸びる。少女の方へ、手を伸ばすように体の一部を伸ばしてきた。
「やっ、イヤっ!」
慌てて踵を返し駆け出す少女に、ソレは後ろから飛びついた。か細い足にベチャっと一部が付着して、伸縮するように残りの体も少女へ飛んでくる。
「やだぁっ!」
冷たいような生暖かいようなソレは、蠢きながら少女の体を這い上がってくる。恐怖と驚きで何も分からなくなってしまった少女の手の平へたどり着くと、左手の甲に集まった。瞬間、焼けるような痛みを感じる。
「痛いっ! やだやだっ!」
叩き落とそうとしても引き離そうとしても取れない。泣きながら少女が座りこんだ時、ソレが左手の甲からズルリと落ちて膝に乗った。
左手の甲からは少しの血が流れていて、噛み付かれたのかと少女は咄嗟にハンカチで出血箇所を押さえようとする。
すると、左手の甲には噛み付いたような痕ではなく、何やら文様のような明らかに噛み痕ではない模様が血の筋を残していた。しかし、噛み痕ではないにしても、この黒い何かに傷つけられたのは明らかだった。
「たすけて……おとうさん、おかあさん」
痛みと恐怖で泣き出してしまった少女の、零れた雫が膝上のソレへ落ちた。
ポチャン
澄んだ水音が響いて、黒いソレはプルプルと波打ちだす。座り込んだまま、少女はただただ茫然と見つめていた。
ソレは、少女の雫が落とした波紋で数秒揺らめき、その中心点からザァっと黒い表皮が剥がれるように飛んでいった。
舞い上がる黒いかけらにぎゅっと目をつぶる少女。少ししてドキドキしながら目を開けると、黒いものが剥がれた後には、蒼銀の美しい毛並みを持った子犬がいた。
「え?」
驚きが口から零れ出ると、その声に反応するように子犬が膝の上から少女を見上げてきた。
お行儀良く揃えて座る足は太く、これからもっともっと大きくなりそうだと思わせる。足の大きな生き物は大きく育つのだ。
知性を感じさせる紅い瞳は、まっすぐに少女を見つめる。先程までの黒い邪悪な姿が嘘のようだった。ふさふさの尻尾をぱたぱたと嬉しそうに揺らしている。
「あ、えっと、どうしよう……」
途方に暮れる少女は、子犬を抱いて立ち上がった。そっと子犬を下ろしてやると、子犬は少女の足元で再びお行儀良くお座りをする。試しに、ゆっくり家へと足を進めると、子犬も当然のようについてくる。
「来ちゃダメ、こっちに来ても、なんにもないんだから、来ないで」
ただの子犬なら、連れて帰ってもいいかもしれない。お母さんに飼いたいと頼んでもいいかもしれない。でも、さっきの邪悪な姿が目に焼き付いて忘れられない。また、あのコワイ姿に戻るかもしれない。
夜になったら、邪悪な姿に戻って、お母さんも私も食べられちゃうかもしれない!
いつしか走り出した少女が、はぁはぁと息を切らして家へ戻ると、洗濯場の辺りでお母さんが慌てて駆け寄ってきた。
「どこへ行ってたの! 心配したのよ。どうして急に黙って出てしまったの? すぐに来るっていったのに……あら?」
少女のワンピースについた落ち葉や土を払って、母親がホッとした様子でお小言を言い始める。が、それも少女の後ろからついてくるものを見て、止まった。
「子犬を拾ってきちゃったの? こんな森の近くに小さな子犬だなんて、どこから迷い込んだのかしら」
「えっ! ちがうの、これは」
言いかける少女へかぶせるようにして、子犬が元気よく吠えた。母親は、子犬を気に入ってしまったようで撫でている。少女も、その様子に先程の以上な状況は見間違えか、それこそ自分がおかしいのかと黙ってしまった。
まだやっと八歳になろうかという少女には、あの異常さを上手く伝えられなかった。なんせ、あまりに異常な光景だったのだ。それと引き換え、今目の前にある現実は、どう見てもただの子犬にしか見えない。
たった今目の前にある暖かく柔らかい毛並みに触れると、あれは白昼夢のだったのかとさえ思えた。
そうして、蒼銀の子犬は家に迎え入れられた。
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