第2話 始まりは冬の夜

「おかあさーん、お洗濯もの干し終わったよー」


 台所で食事の用意をしている母親へ、幼い少女が両手で抱えた空のカゴを自慢げに掲げて見せた。

 森の入り口にぽつんと建つ、一軒の小屋。昼食の支度をする湯気がゆらりゆうらり煙突を抜けて空へ。森の木々の間から、ささやかな幸せの香りが立ち上っていく。

 地下の貯蔵庫と夫婦の寝室に子ども部屋がある、こじんまりとした森の一軒屋。広めのリビングには暖炉と大きめのソファ。ゆらゆら振り子のように揺らせるウッドチェア。大人四人で囲める食卓と椅子。大体の家具は、父が作って母が色を塗ったりカバーを縫ったりして見栄え良く仕上げている。

 手作り感溢れる質素な生活ながらも両親から愛されて育った少女は、野に咲く花のように愛らしい笑顔が良く似合う。


「ありがとう、もう少しでお昼ご飯だからね。もう少しよ」


「はーい。でも、ちょっとだけ蜂蜜湯飲んでもいい?」


 ご飯の前に、少しだけとねだる娘。台所へ向かっていた体を半分だけ振り返らせて、困り眉の笑顔を向ける母。


「えぇ? もう、ちょっとだけね。明後日のお誕生日に焼くケーキ、蜂蜜たっぷりがいいのなら、今食べ過ぎちゃダメよ」


「わかってまーっす」


 手にしたカゴを頭に半分かぶせて、嬉しそうにパタパタと庭の洗濯場へカゴを戻しに走る。そんな娘の姿を、母親は幸せそうに愛情深い眼差しで見送った。


 働き者で誠実な夫に、素直で愛らしい健康な娘。蓄えは多くないが、家族で慎ましやかに食べていくには十分だ。あぁ、なんて、なんて幸せな日々なのだろうか。

 この幸せは、全てアルマのおかげだ。あの日、あの時、アルマが禁を破ってお産を手伝ってくれなければ産めなかった。

 いや、もしかしたら産めたかもしれない。だが、母子ともに無事であったかは分からない。初めてのお産で、アルマが手伝ってくれてもなお酷い難産だった。

 今、こうして、親子三人無事でいられる事に日々感謝を捧げる。アルマと、今は亡き聖女様へ。


 あの日、禁忌を破ったあの日から、毎日欠かすことなく聖女様への祈りを捧げてきた。本来捧げるべきだったあの日に出来なかった分。倍にして、いや、十倍にも百倍にも、己が授かった幸福の分だけ、感謝と祈りを捧げてきたのだ。

 人々の幸福な暮らしを、亡き後も見守ってくださっているであろう聖女様へ感謝するのは当然の事だと思っている。


 そんな事を思い返しながら、野菜スープの鍋をかき混ぜてハーブを加えた。


 本当の誕生日は明日。年に一度の大安息日。明日で娘は八歳だ。

 気立ても器量も良い、全てを優しく包み込む夜の闇のような黒髪、黒曜石のような瞳は陽の光によって柘榴石のように輝く時もある。ご褒美をねだることは多いけれど、骨身を惜しまず毎日よく手伝ってくれる子だ。


 木製の大きなスプーンで鍋を混ぜる手を、ふと、止めた。


 おかしい。いつもなら、カゴを置いて手を洗ったらすぐにでも自分のカップ片手に蜂蜜をねだってくるのに。まだ戻ってこない。


 竈の火を調節して鍋に蓋をすると、庭へ様子を見に向かう。

 なんでもない。きっと、庭に生えている名もない花でも摘んでいるんだろう。あの子はそういうところがある。何でもないささやかな幸せを見つけるのが上手な子だ。


 でも、何故か今日は妙に胸がざわつくのだ。


 どきどきと嫌な音を響かせる胸元で手を組んで、祈りを捧げる。一呼吸分の間を置いて、少女の母は勝手口の戸を開けた。

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