1章

第2話

「俺、彼女できた」


 金曜日。帰りのホームルームが始まる直前。親友である手塚誠也てづかせいやに、昼休みの出来事を告げた。

 手塚は太一を一瞥すると、スマホに視線を固定したまま呟く。


「はいはいおめでとさん」

「何だよその反応は」


 冷たい態度の手塚に太一は顔をしかめる。


「あのな、嘘も大概にしとけって。今まで告白に失敗し続けてきたお前に、彼女なんてできるわけないだろ」


 さらっと酷いことを口にした手塚は、物でも扱うように太一をあしらった。しかし太一はそんな手塚の態度を鼻で笑う。


「甘いな。俺の純粋な気持ちに応えてくれる人が、ついに現れたんだよ」


 あまりに自信に満ちた態度を示す太一に手塚はため息を吐くと、スマホから太一に視線を向ける。


「まあ、一応聞くけど……相手は誰なんだ?」

「……柊。柊綾乃」

「嘘だろ!」


 机を両手で叩いた手塚は勢いよく立ち上がった。周囲の視線が手塚に向けられる。我に返った手塚は、ずれた眼鏡をかけなおした。


「本当だって。アドレスもゲットしたし」


 スマホ画面のアドレス帳を開いて、手塚に証拠を見せる。手塚は状況が理解できないのか、口を開けたまま呆気に取られている。


「そうか。太一、お前……」


 手塚は太一の肩にそっと手を置くと、慰めるように肩を軽く叩いてきた。


「自分でアドレス帳を埋めるほど、精神が崩壊してたんだな」

「埋めてないから。いい加減信じろよ」


 冗談だよと、手塚は太一に笑みを見せた。


「それでいつ告ったんだ?」

「今日の昼休み。屋上で告った」

「あの学年トップクラスの美少女がね。まさかお前と付き合うなんて。何か裏があるんじゃないか?」

「絶対にないって。だってあの柊だよ」

「まあ……太一の言う通りだな。俺も流石に柊さんに裏があるって考えたくない」


 柊は太一の思っていた通りの人だった。

 一年生の頃、入学式の後にクラスで行われた自己紹介。柊はこの時から、皆に向けて自分の夢を熱く語っていた。

 インターハイに出て優勝したい。

 常に真っ直ぐで自分の気持ちを偽らない。二年生になった今も、変わらずに自分の夢を追いかけている。そんな柊に裏があるなんて太一は思ってもいないし、思いたくもなかった。


「席に着け」


 迫力のある声と共に教室に入ってきたのは、クラス担任の高野たかの先生だった。高野先生を見るなり、皆が一斉に自分の席へと戻っていく。


「今日は大事な話があるから、よく聞くように。先週の金曜日に行った身体測定ならびに血液検査の結果が、先程学校のポータルサイト「はるかぜ」の個別サイトに上がった。各自確認しておくように」


 教室内が喧騒に包まれる。その様子に呆れた表情をみせた高野先生は、持参していた黒いファイルを突然教卓に叩きつけた。甲高い音が響き渡り、一瞬にして教室内は静まり返る。


「まったく……こんなことで馬鹿騒ぎしてるようだと、この先が思いやられる。君達は二年生になった。せめて後輩の手本になるような態度を示してもらいたい。今のままだと馬鹿にされるぞ」


 張り詰めた空気が広がっていくのがわかった。高野先生は咳払いをして話を続ける。


「それで君達も知っていると思うが、我が堀風ほりかぜ高校は政府からの指定を受け、全国の高等学校で唯一、血液検査でボンドの測定を行った。二十歳未満の君達が、こうしてボンドの測定を行うのは世界で初めてのことになる。そのため今回は特別に結果を開示するが、くれぐれも他人に口外しないように」


 高野先生はそう言い放つと、手に持っていた黒いファイルを開いた。暫く目を通した後、視線を生徒へと戻す。


「なお君達の身体測定の結果と血液検査の結果は、月末までの公開となっているようだな。五月になると、ポータルサイトでの閲覧はできなくなるので注意するように」


 そんな高野先生の補足説明を最後に、帰りのホームルームは締めくくられた。担任がいなくなり、教室内が徐々に弛緩した空気を取り戻していく。生徒同士の会話が生まれ、活気のある空気が流れ出した。

 太一は背もたれに身体を預けると、大きく両手を伸ばす。


「私、3―1だ!」

「私は2―2」

「お、俺は2―1だったぜ」


 声のする方へと視線を向けると、数名の生徒が教室の真ん中でスマホ画面を見せ合っていた。その行動の意味に太一はすぐに気づく。おそらくポータルサイトに表示されたボンドの結果を見せ合っているのだと。

 高野先生の忠告を無視するクラスメイトを横目に、太一は帰り支度を始める。周囲から聞こえてくる会話のほとんどが、ボンドに関する話だった。

 ボンド。英語で「結合」を意味するbondが由来となっているこの言葉を、今や日本で知らない人はいない。今から二十一年前の二〇三〇年。堀風大学に勤めていた星野誠司ほしのせいじが、血液の液体成分である血漿の中に「ボンド」と呼ばれる情報源がある可能性を学会で発表した。しかし発表当時の論文には、ボンドの存在を証明する明確な記載がされていなかった。そのため星野教授の発表は可能性の話で終わり、世間に広まることはなかった。

 しかし四年後の二〇三四年。ボンドの存在を証明する詳細なデータ収集に成功した星野教授は、データに基づいてボンドの存在を次のように定義した。


『ボンドとは、異性との繋がりや結びつきの強さを示す鍵となる情報源である』


 星野教授の発表は、人々を震撼させる十分な威力を持っていた。互いのボンドを知ることにより、一番相性の良いパートナーを見つけることが可能だと言っているようなものだから。それからというもの、容姿や性格といった恋愛をする上で判断材料となる条件の一つに、ボンドも加えられるようになった。

 もし好きな人が自分と相性の良いボンドだったら。

 色恋沙汰に強い興味を示す高校生にとって、恋愛に関わるボンドはまさに夢のような存在。そのボンドを特例でいち早く知れるのだから、こうして教室内がボンドの話題で持ちきりになるのは、太一にも容易に想像できた。


「うーん、塩素型。思ってたのと違ってた」

「私は……やった、酸素型!」

「リチウム型……これってどうなんだ?」


 元素名が太一の耳に入る。当然、今は化学の授業などしていない。それでも生徒達が元素名を口にするのには、ボンドの理論を語る上ではなくてはならないからだ。

 星野教授の論文によると、まずはじめに全ての生物種は性別によって分類が別れる。男子は陽性、女子は陰性。この違いに加え、同性内でも血漿の成分中にあるボンドの種類が各々異なる。その数は男女ともに五種類ずつと言われており、研究が進めばさらに細かく分けることも可能らしい。

 例えを出すなら、さっきのクラスメイトが口にしていたボンド。男性が言ってたボンドはリチウム型だった。これを周期表に当てはめると、第二周期に属する。これがリチウム型、2―1と表記されるボンドの先頭の数字になっている。

 では後の1という数字は何か。ここで化学結合の理論が登場する。

 お互いの電子を共有する共有結合。正電荷を持つ陽イオンと、負電荷を持つ陰イオンの間のクーロン力による結合であるイオン結合だ。結合の仕方は違えど、イオンや原子は結合によって安定しようとする。ボンドではその安定が大切だと言われているのだ。

 原子中の価電子は二個で対になったときに安定する。リチウムは対になっていない価電子を一つ持っている。これを不対電子と言って、この数がボンドの後の数字になっている。だからリチウム型は2―1と表記される。

 一方で女性の2―1であるフッ素型。フッ素は周期表で見ると、第二周期に属する。だからボンドの先頭の数字は男性の時と変わらない。後の数字も同じで、フッ素型は不対電子を一個持っている。なのでフッ素は2―1と表記されるようになった。


「ちょっと、太一!」


 思考を巡らせていた太一の耳に、聞き慣れた声が響く。視線を向けると、予想通りの人物が太一の前に立っていた。


「なんだよ、夏月」


 星野夏月ほしのなつき。家が隣同士の幼馴染で、太一や手塚と同じ中学出身。ショートカットの髪は夏月の特徴の一つで、明るくて活発な彼女に似合っていた。


「さっき手塚から聞いたんだけど……彼女できたって本当なの?」


 グイグイと顔を近づけて詰め寄ってくる夏月の肩を、太一は手で押し返す。


「本当だって。ついに俺にも念願の彼女ができたんだ」

「ふーん……騙されてんじゃないの?」

「おい、幼馴染のお前までそんなこと言うのか?」

「だって今まで太一はずっと振られてたじゃん。それなのに彼女ができるなんて……しかも相手は柊さんなんでしょ? 納得しようにも無理があるって」


 柊は女子の間でも人気があった。当の本人は人気があることを鼻にかける所もなく、分け隔てなく皆と関係を築いている。同性でも憧れる人がいるほどだ。そんな柊と付き合うことになった事実に納得できないという夏月の気持ちは、太一も理解できた。


「でも、そんな柊と俺は付き合うことになった。今日もこれから一緒に帰る約束を……っと来た来た」


 タイミングよくスマホが震え、メッセージが来たことを太一に知らせる。相手はもちろん柊から。太一は意気揚々とスマホを操作して、メッセージを確認する。

 しかし柊からの返信は、太一の期待を打ち崩す内容だった。


「そんな……今日は一緒に帰れないって」

「ほら。やっぱり騙されてる」

「だから騙されてないって。ほら、見てみろよ。ちゃんと部活のミーティングで遅くなるから、先に帰ってほしいって書いてあるだろ」


 太一はスマホの画面を夏月に見せた。

 夏月は画面に視線を向けたまま、暫くの間見入っていた。何か変な文章でもあっただろうか。太一はスマホの画面を自分に向け、柊からのメッセージを確認する。部活のミーティングで帰れないこと。来週は一緒に帰れる日は帰ろうって書いてあるだけ。彼女からのメッセージとして、特におかしなところはないはずだ。


「……本当に付き合ってるんだ」


 夏月が真顔で太一を見つめてくる。


「やっと認めたな。俺は柊と付き合い始めた」


 ようやく幼馴染を納得させることができ、太一はほっと息を吐く。こうして手塚や夏月が太一の発言を疑うのは無理もなかった。そもそも太一は中学生の頃、八人の女子に告白して振られている。小学生の頃も含めると、振られた回数は二桁に達しているのだ。

 好きな人がすぐにできるのはおかしい。

 中学生の頃。告白に失敗する度に、夏月に言われ続けた。それでも太一は夏月の言葉に耳を貸さなかった。好きなものは好き。その気持ちを伝えることの何がいけないのか。

 太一が夏月の言っていた言葉の意味を知ったのは、高校生になってからだった。

 柊と出会った太一は、上手く自分の気持ちを表現できなくなっていた。いつもなら真っ先に好きという思いを告げていたはず。それなのに太一はなかなか行動に移せずにいた。

 理由ははっきりしていた。柊と話そうとする度に、胸の痛みが増していったから。

 経験したことがない事態に、太一は戸惑いを隠せなかった。今まで好きになった女子には決して感じなかった気持ち。どうして柊には感じるのだろうか。

 暫く考えた太一は、その時初めて夏月の言葉の意味に気づいた。

 今までの自分が上辺だけの好きで動いていたことに。そもそも行動と心が噛み合っていなかったのだ。振られるのも当然の結果だった。

 だからこそ太一は柊に対する気持ちが本物かどうか確かめる為に、一年間自分の気持ちと向き合った。そして今日、変わらない思いを柊に打ち明け、初めての彼女ができた。

 そんな経緯があるからこそ、太一は少なからず夏月に感謝している。


「星野。高野先生が職員室に早く来いって」


 帰り支度を終えた手塚が、二人の元へとやってきた。


「あっ、いけない。早く行かないと。ありがとう、手塚」


 手に持っていたスクールバッグを肩にかけた夏月は、足早に教室を後にした。


「相変わらず慌ただしいな、星野は」


 手塚がぽつりと呟いた。その呟きに太一も同意の意味を込めて頷く。


「そういえば太一はボンドの結果、見たのか?」

「いや、見てない。俺にはボンドの情報なんて必要ないし」

「そっか。まあ太一がそう思うのは良いけど、柊さんは考えが違うかもな」


 手塚の指摘に胸騒ぎがした。柊は少なくともボンドに関心を持っている。屋上でボンドについて言っていたのだ。いくら太一がボンドに興味がなくても、いずれ柊も太一のボンドを聞いてくるかもしれない。


「そ、それより手塚のボンドはどうだった?」

「俺か?」

「聞いてきたってことは、結果見たんだろ」

「まあな。とりあえず、帰りながら話すわ」


 手塚の意見に同意し、太一達は教室を後にした。

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