第三十四階層 魔王

 地の底に引きずり込むような螺旋階段らせんかいだんを歩いた。二度目の体験で慣れたのか。誰も文句を言わず、黙って足を動かした。

 長い行程を経て一行は土色の大地に降り立った。

 一方から場違いな拍手が起こる。かなり先に小さな人影が見えた。

 茜は限界まで目を細めた。

「ここからだとよくわからないけど、なんか腹立つ」

「見下す感じがするー? 私にも見えないねー」

 ハムは冨子の横にきて言った。

「目を閉じていれば見えないぞ」

「はい?」

 ゆらりと頭を動かして斜め下を見る。糸目を僅かに開いて微笑んだ。

「生まれつきの糸目なのよねー」

「それなら仕方ないね。うん、仕方ない」

 ハムは短い尻尾を懸命に振った。

「行けばわかるだろう」

 直道は一歩を踏み出した。右手に冨子が並ぶ。左手には茜が付けた。その横をハムがちょこちょこと歩いた。

 横一列で進むと人影の正体があらわになった。

「ここまでよく来られました」

 禿頭とくとうの老人が拍手の手を止める。薄汚れた野良着姿で足元には白い子犬が丸くなっていた。

 一瞥いちべつした直道は老人に目を向ける。

「魔法のコンパスを売っていた五郎さんでしょうか」

「はい、五郎です」

「本当に? その肩にいる緑色の鳥は初めて見るんだけど」

 茜は老人の一方の肩を指差した。すると相手は両方の掌を見せて軽く仰け反った。

「初めてではありませんよ。海の運搬役で見ているはずです」

「もしかしてー、その子も変身とかしますー?」

 冨子は子犬を見て言った。

 老人は両頬を盛り上げる。目の周辺に深い皺を作り、喉に引っ掛かるような笑い声を漏らした。

「もちろんです」

「あのさ。じゃあ、あんたは四郎でいいんだよね」

「はい、四郎ですよ」

 ハムが前脚で大地をえぐるようにして蹴った。

「爺、俺様を珍品扱いした恨みを忘れていないぞ!」

「今でも惚れ惚れします。一定の知能を持った無生物など、ここ以外では見たことがありません。珍品コレクターとしては見逃せない逸品です」

 茜は怒りの一歩で黙らせる。

「あんた、あの時に私に二郎って名乗ったよね」

「よく覚えていますとも。二郎ですよ」

「ふざけないで!」

 茜は怒声を上げた。その肩に直道が手を置いた。軽く引き戻すと代わりに前へと出る。

「五人兄弟を演じていたのか」

「おっしゃる通りです。長い暇潰しに付き合って頂き、誠にありがとうございました」

 老人は軽く頭を下げた。直道は一時も目を離さない。

「何が目的で、お前は誰だ?」

「目的は正直に言いました。暇潰しです。そうですね。私を俗な言い方で表現すれば魔王になります」

 冨子は、んー、と間延びした声を出す。

「魔王さんのお城は地上にありましたよー」

「目にされましたか。街の横に居城があります」

 話の途中でハムが寝転がった。やる気のない態度を露骨に見せる。

「ハムちゃん、長話で疲れた。終わったら起こしてね」

「あんたは緊張感の欠片もないよね」

 茜は表情を崩して言った。

「街は結界で守られていた。魔王の配下は入って来られない。魔王も例外ではないと思うが」

 瞬きの回数が極端に減る。直道は警戒を強めた。

「勘違いをしています。街よりも前にダンジョンが出現しました。私は配下の者に探索の任を命じましたが生還した者はいません。そこで魔王である私が直々に向かうことになりました」

「その後で街ができたってこと?」

 茜は疑わしい目を老人に向ける。

「意外に思うかもしれませんが、これが事実です。このダンジョンは生き物のように姿を変えます。時に起こる揺れを経て内部の構造を変容させます。そのおかげで私の興味が失われることはありませんでした」

 直道は顎を摩りながら聞いていた。

「納得できる回答だ。途方もない探索の合間に結界が張られて街が完成した。王城では勇者の召喚が行われ、このダンジョンで心身を鍛える」

「皮肉だよね。最初の鍛える場所に最終目標の魔王がいるなんて。ひよっこ勇者は何もできない状態で瞬殺しゅんさつだよね」

 半笑いの茜に冨子が眉根を寄せた。

「その勇者が私達ならー、もしかして戦わないといけない場面なのかなー?」

「そうでなくては困ります。以前は一瞬で終わらせていました。繰り返すことできょうを削がれ、少し育ててみようと思った次第です。それに、ここより先に降りる階段はありません」

 老人は、にたりと笑う。

「魔王と勇者、戦うのが必然とは思いませんか」

 言い終わる前に指を鳴らした。

 足元にいた子犬がむくりと起き上がる。踏ん張るような姿勢で唸り出すと急激に身体が膨れた。以前よりも大きく、毛が逆立つ。間もなく銀色の刃に全身を覆われた獰猛な野獣を生み出した。前に迫り出した口から覗く乱杭歯らんくいばは凶悪そのものであった。

 続けて親指と人差し指を輪にして口に咥えた。鋭い音を立てると肩にいた鳥が舞い上がる。小さい点に等しい状態から巨大な翼を左右に広げた。瞬時に首が伸びて横を向いた瞬間、炎の塊を吐き出した。落ちた先が深紅に染まり、遅れてきた熱風が一行に吹き付ける。

 緑色の鱗に覆われた翼竜は地上に降りず、一定の高さで羽ばたく。

「最後は私ですね」

 老人は左右に脚を開いた。両脇を締めて拳を握ると、短い呼気を吐き出した。野良着は一瞬で散り散りとなった。青黒い巨躯きょくは天を衝く勢いで伸びる。左右の頭部から波打つような角が生え、巨大な尻尾が大地をしたたかに打ち据えた。

「……なに、これ?」

 茜は見上げたまま呆けた。

 頭部は荒々しい雄牛。双眸は深淵を思わせる黒一色であった。不自然な犬歯は顎の下まで伸びて現実味が薄い。

 空で待機していた翼竜は魔王の左肩が定位置と言わんばかりに止まる。翼を折り畳むと小鳥のように見えた。

 舞台が整った。途端に魔王の野太い声が降ってきた。

「勇者よ、その力を存分に見せるがいい」

 茜は呆けた状態で首を傾げる。

「……戦いになる? 一方的な虐殺じゃないの?」

「これは本当に現実なのか。夢ではないのか」

 直道は目頭を揉んだ。冨子はだらりと両腕を下げた状態で薄笑いを浮かべる。

「んー、それならきっと悪夢だよねー」

「ハムちゃん、良い子だよ」

 いつの間にか起き上がったハムは魔王に向かって愛らしい声を出した。

 地響きに近い笑い声が一行に降り注ぐ。

「本当に珍しい珍品だ。砕いたあとで回収するとしよう」

「おい、待て! この愛らしさがわからんのか! 砕いたら駄目だろォォ! こちらが逆に噛み砕いてやろうかァァァ!」

 ハムは錯乱した。ふらついた状態で鼻息を荒くする。

「ほう、どのようにして魔王を噛み砕くのだ?」

「冨子、出番だぞォォ! あの毛むくじゃらの脚に噛みついてやれ!」

「はい?」

 冨子が目を見開いた。

「それだ」

 直道は冨子の正面に回り込む。真剣な顔で腹部に手を伸ばすと、えー、そんなー、と色っぽい声を出して腰をくねらせる。

「こんなゲームはないわ!」

 茜の激昂を聞き流し、直道はエプロンの正面のポケットから銀色のコインを取り出した。手にしてハムのところに向かう。

「ハムに全てを託す」

「直道、どうしたのだ?」

 疑問に答えず、中腰になった。ハムの口に素早くコインを押し付けると即座に反応があった。急に四肢が伸びて吸い込むようにコインを口の中に取り込んだ。

 直後、全身が激しく上下に動く。丸くなった目は無機質なガラス玉のようだった。

「魔王、ハムが相手をする! そのあとは私達だ!」

 直道は二人の手を掴んで走り出す。

「なに、どういうこと!?」

「茜ー、遅れているよー」

 冨子は笑って走った。

「よかろう。珍品を粉々にする行為に心が痛むが、これも魔王と勇者の宿命として受け入れるとしよう」

 魔王は頭を下げた。ピンクの点のような存在に歯を剥いて嗤った。

 それは一瞬の出来事だった。最初に魔王が仰け反った。声を発する前に鼻の一撃を頭部に受けて角が折れ、回転しながら地の果てに消えた。難を逃れた翼竜は空へと舞い上がる。強烈な鼻息を片翼に受けてバランスを崩し、凄まじい勢いの頭突きをまともに食らって四散する。下にいた野獣は鉄槌の四肢で踏み潰されて地中に埋まった。

 舞い上がる土煙の中で全て行われた。土気色の大気が薄れると今度は茜が激しく仰け反った。

「え、ええええっ!」

「あらー」

「さすがにこれは」

 直道は困惑した表情で口を閉ざす。

 ハムは大地を揺らす声で笑った。

「これが俺様の変身だ! ピンクの悪魔の異名は伊達ではないのだァァァ!」

「……あれを変身とは呼びたくない。そのまんまじゃない」

 茜は視界を埋めるピンクの物体に控え目な悪態を吐いた。


 短時間の効果に限られているのか。異常な巨大化を果たしたハムは瞬く間に萎んだ。元の姿に戻ったものの、尊大な部分は残った。

「わっはは、俺様が神だ! 愚民共、崇めるがいいぞ!」

「ハムは悪魔じゃなかったの?」

「もちろん悪魔だぞ! 悪魔神あくまじんと呼ぶがいいぞ! わっははは!」

「悪で魔神だとー、すごい悪い子に思えるよねー」

 冨子の一言にハムは素に戻った。

「ハムちゃん、良い子だよ」

「そうねー。ハムちゃんは、そうでないとねー」

 差し出された頭を冨子は優しく撫でる。

 茜は横目で見たあと、直道に目を移す。

「よく思い付いたよね」

「ハムの食事の姿と銀色のコインで閃いた。豚の絵柄も結び付く要因になった」

「ヒントはあったんだね。でも、あの姿には驚いたよ」

「私も同じだ」

 その時、安っぽい電子音が軽やかに聞こえてきた。全員が目で探り、一方に釘付けとなった。

 茜は息を呑んだ。

「……ここが、最深部じゃなかったんだね」

 全員の視線が重なるところに、ひっそりと降りる階段が現れていた。

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