第二十五階層 微妙な試練
ハムの足取りが重い。顔を何度も左右に背けて階下へ降りた。
「異臭がするぞ」
着くなり、半ば怒ったように言った。
「鼻にツンとくる感じがするねー」
冨子は鼻をむず痒そうに動かす。
床には白くなった植物の葉や茎が折り重なる。踏むと乾いた音がした。微量で足を取られるような深さはなかった。
「なんか、薄汚いところだね」
茜は斜め前の壁を見た。灰色の石の表面に黒い楕円の汚れが付着。幾つも目に留まる。天井も同じ状況で立体的なものまであった。
「動き出しそう」
口にして大きく身を震わせる。
「私には自然に思える。今までが不自然に綺麗だった」
直道の言葉にハムが声を荒げた。
「とにかく臭い! 俺様はこのような清潔感が失われた空間にいたくはない。さっさと抜けるぞ」
「それには同感。こんな汚いところに座りたくないし、横になるなんて絶対に無理」
強い口調で茜が言った。
「直道さん、なんか臭いよー」
冨子は直道の腕にしがみ付く。途端に茜の目が厳しくなった。
「その理由で、その行動はおかしいでしょ」
「まあ、行こうか」
直道は左手の通路から当たる。目で壁を捉え、触れることはしなかった。
長い直線が続いた。乾いた音の連続に、煩い、とハムが意味もなく怒鳴る。
薄暗かった前方が見えてきた。右手に曲がっているようだった。
一行の足が僅かに速くなる。曲がるとすぐに足を止めた。先があるように見えて唐突に道が閉ざされた。
「行き止まりじゃない!」
「思わせぶりな道だよねー」
「引き返すしかない」
一行は来た道を戻る。次の通路に立ち入った。似たような構造の直線を歩き、突き当たったところを曲がると、やはり道が途絶えた。
冨子は軽く拳を握る。その状態で壁の一部を小突いた。
「作りが嫌らしいよー」
「臭くて鼻の穴が外側に
ハムの言動が怪しい。鼻を天井に突き上げて激しく揺れ出した。
横にきた茜が不思議そうに見やる。
「前の時のように鼻の穴を閉じればいいんじゃないの?」
「その手があったか!」
瞬時に閉じられた。鼻の穴は二本の縦線に変わる。
「うむ、快適だ」
「私にはそんな器用な芸当はできないよぉ。あのクリップをお爺さんから貰っておけば良かったよー」
冨子は駄々を
「戻るついでだ。有難く頂戴するとしよう」
その言葉通り、一行は上の階に戻った。目立つ位置にあった露店は跡形もなくなっていた。驚異の店仕舞いに、そんなー、と冨子が間延びした声で嘆いた。
再び階段を降りて一行は探索に当たる。思わせぶりな道が多く、嫌悪感が各々の顔に表れた。ようやく引き当てた正しい道の先にも微妙な試練が待ち受けていた。
五歩毎に曲がり角がやってくる。分岐した先も同じで一行はロボットのようにカクカクと動いた。
せせこましい状況にハムの精神が擦り切れる。
「なんなんだ、ここは! 嫌がらせにも程があるぞっ! おまけに長い! 長すぎるぞォォォ!」
「狭いところで叫ぶな! 耳が痛くなる!」
茜の怒声に冨子は、耳栓が欲しいー、と言い出した。
単調な繰り返しに耐え、少し広い空間に出た。
直道が皆に向かって言った。
「休憩と気分転換を兼ねて、ここでしばらく休む」
「無理だよ。こんな汚いところで横になんてなれない」
「私が場所を確保する」
直道は右脚を
「じゃあ、私もー」
冨子は付けていたエプロンを外して少し範囲を広げる。
「私は制服で脱げるものはないんだよねぇ」
「茜はそのままでいい」
直道は他の手立てを探すように顔を動かす。ハムの姿が目に付いた。他の二人もそれとなく見た。
「ハムのあれって、裸なんだよね」
「見慣れるって怖いよねー」
「ようやく俺様の偉大さに気づいて畏怖するようになったのか。うむ、実に良い兆候だぞ」
上機嫌となったハムは適当な隅で横になった。
三人は確保した場所で身を寄せ合って目を閉じる。ただし安眠とは程遠い。
冨子が横になった状態で呟く。
「……臭いが、近いよー」
直道は冨子の頭を胸に抱えた。愚痴はなくなり、中和されるー、と安らいだ声に変わった。
二人に背中を向けた状態で茜が薄っすらと目を開く。少し遠くにハムの下っ腹が見える。四肢がピクピクと動き、床に積もったものが微かな音を立てた。
「カサカサ、うるさい」
言いながら瞼を閉じる。音は鳴り止まない。乾いた音を途切れ途切れに伝えた。
茜は強く瞼を閉じ、合間に生欠伸をした。それでいて眠気が訪れず、億劫そうに再び瞼を開けた。
少し潤んだ目で壁の汚れをぼんやりと眺める。耳が乾いた音を拾う。二つの効果によって激しい身震いが起きた。
「……ゴキブリは、いないよね?」
壁に付着した黒い楕円の汚れが揺らぎ始める。カサカサと立てる音が不安を掻き立てた。
茜は勢いよく立ち上がった。
「無理よ、こんなところ! 悪いんだけど、先を急ごうよ!」
「実は私も想像した」
直道は上体を起こし、壁を睨むようにして言った。
「そうなるよねー」
のんびりとしながらも冨子は同意を示す。
三人は出掛ける用意を始めた。茜は制服を軽く手で払ってストレッチを始める。直道と冨子は敷物を回収して身に纏った。
揃って壁の隅に向かう。ハムは眠りこけていた。大草原を突っ走る夢でも見ているのか。四肢を忙しなく動かした。
茜は見下ろした姿で息を吐く。
「豚はいいよね」
「そうだねー」
「社畜と家畜、どちらが幸せなのか」
直道は眼鏡の中央を押し上げた。
茜がハムを優しく蹴って起こし、探索の再開となった。嫌らしい作りはまだまだ続く。極端に狭い通路は絡むように複雑。壁の近さもあって悪臭に苦しめられた。
床一面が妙に柔らかい。ゲル状のものが蠢き、気味悪いながらも踏んで歩く。
新たな脅威は高い音だった。耳元から離れない。蚊を思い出した茜が両手で叩こうとするが逃げられる。物体として存在するかも疑わしい。
「ああ、もう、なんなのよ!」
「音を聞くだけで耳が痒くなりそうだ」
直道は適当に手で払う。側にいた冨子は、怖いー、と言いながら腕に縋り付いた。
「俺様には耐えられないィィィ!」
ハムは半狂乱で走り回る。
そこに第三者の声が挟まった。
「……あと少し」
くぐもった声は出所が不明な上に性別も判然としない。
三人は互いの目を見た。否定の意味で同じように頭を振った。
「降りる階段を見つけたぞ!」
先行したハムの歓喜の叫びで疑問が深まる。
出所不明の声は予言となった。
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