第二十二階層 初めての装備品
階段の途中でハムが突然に駆け出した。先頭の茜を抜き去り、尚も走る。
「急になんなのよ」
「あー、小瓶がー。若返りのー、取って置きの小瓶がー」
冨子の未練がましい声に茜は溜息を吐いた。
「あの小瓶がなかったら、本当に危なかったんだよ。状況、わかってる?」
「そうよー。これが正解だったのよー。直道さんの口に二人掛かりで小瓶を突っ込んで若返らせてー、あのデカブツを殴り倒して貰えばよかったのよー」
「いやいや、それ、絶対に無理でしょ」
最後尾で話を聞いていた直道がぼそりと言った。
「怪しい物を飲ませようとするな」
「はは、はははは」
茜の乾いた笑いに音が重なる。重く沈んだ調子が水辺を想像させた。
「ハムが沼に落ちた?」
「あれー、これって温泉っぽいよー」
冨子は鼻を突き出すようにして足を速めた。
「言われてみれば」
茜は残りの階段を小走りで降りた。釣られたように二人の速度も上がる。
広々とした空間には既視感があった。冨子は薄闇の向こうを見て微笑む。
「独特な香りで温泉卵が食べたくなるー」
「また温泉か」
「ハムは気に入ったみたいね」
三人は足場を気にしながら歩いた。上の階層の影響なのか。滑らかな床ではなかった。自然の石が長い年月で風化して平らになったような作りであった。
湯で煙る中に赤茶けた池のようなものが見えてきた。ハムは横向きで湯面に浮いている。面倒そうに前脚を上げた。
「
「ないでしょ」
茜は自分の一言で軽く笑った。
直道は目を細めて奥を眺める。
「温泉は他にもある。乳白色に、あれは無色透明なのか。源泉が違うようだ」
「直道さん、無色透明のお湯に一緒に入りましょうよー。若返っていなくても、その肉体は魅力に溢れていますからー」
冨子は甘ったるい声で妙に腰をくねらせる。近くにいた茜が割り込むように前に出た。
「赤茶けた湯は見えないし、ここで一緒に入ればいいじゃない。目を離すと何をするかわかったもんじゃない」
「あらー、狙ってもダメよ。私の永久予約済みだからー」
「狙うか! 無駄にでかいものを引き千切るぞ!」
「いやーん」
冨子は片足を曲げて胸を隠す。挑発的なポーズに茜は歯軋りした。
「極楽だ~」
ハムはゆっくりと湯面で回りながら完全に伸びていた。
「見るだけで力が抜けるわ」
「そうねー」
茜と冨子は静々と服を脱ぎ始める。直道は少し離れたところでネクタイを緩めた。
意外と底は浅かった。茜と冨子は縁を枕代わりにして仰向けとなった。少し離れたところで直道は座り、自らの手で上半身に湯を掛ける。
茜は刺々しい天井をぼんやりと眺めた。
「温泉はいいんだけど、そろそろ装備が欲しいんだけどなぁ」
「宝箱はあるんだけどね。出てこないよねー。ここだと洗濯ができないし、着替えは欲しいかなー」
冨子は赤茶けた湯から右腕を出した。鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。
「臭くはないけどねー」
「……ひょっとして装備品は宝箱に入ってなくて、街で買わないとダメなのかな?」
「チュトリアには戻れないんだよねー。通路を岩で塞がれたしー」
のんびりした冨子の声に、そうだねー、と茜も間延びした声で返した。
「んー」
冨子は視線を下に向けた。ハムが湯から上がった。鮮やかなピンク色の身体で他の湯に走り、頭から飛び込んだ。
「楽しんでるねー」
「なんの効果があるのか知らないけど」
二人は長い息を吐いて静かに瞼を閉じた。
カツカツと硬い足音が急速に近づいてくる。ぼんやりとした意識で茜が目を開けた。ハムが鼻を突き出した姿で覗き込む。
「宝箱を見つけたぞ! いつまで寝ているつもりだ!」
「本当に!」
茜は即座に冨子の肩を掴んで揺する。
「……直道さん……もっと、優しく揉んでー」
「夢の中で妙なことをするな! 早く起きて! 宝箱が見つかったんだって!」
「あー、宝箱ね。うん、そうねー。直道さんは?」
隣を見ると姿が見えない。
「直道は宝箱のところだ! 俺様は先に行くぞ!」
ハムは点々とする温泉の中を蛇行しながら走っていった。二人は急いで着替えて足早に付いていく。
スーツ姿の直道の姿が見えた。足元にはピンクの宝箱があった。初めて目にした色に茜が本音を漏らす。
「不吉な色ね」
「どこがだ! 俺様と同じ王者の色ではないか!」
「開けてみるか」
直道が一同を見て言った。
「よろしくー」
「任せるよ」
直道は片膝を突いた姿で蓋を開けた。中には折り畳まれた衣類が収められていた。
「初めての装備品じゃない!」
「やっとだねー」
二人は声を上げて喜んだ。直道の表情も和らぐ。ハムは鼻息一つで済ませた。
三人は装備品に着替えた。各々の不機嫌な顔が並ぶ。
茜は薄いグレーの制服姿となった。
冨子はパンツルックに純白のエプロンを纏う。
直道は濃紺のスーツで、実直な性格を表すかのようにネクタイには少しの傾きも見られない。
ぷるぷると茜が震え出す。
「前と同じじゃないの! そりゃ、新しくなったけど!」
「ここまで同じだとびっくりだよねー。下着までそのまんまだしー」
「見た目は変わらないが、身体能力を上げるような付加価値があればいいのだが」
ハムは三人をざっと眺めて言った。
「同じだろ」
さっぱりした顔で近くの階段を降りていった。
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