大人

 鮫島姉は完全に意識を失っていた。

 茜が俺たちの元へ駆け寄ってきた。


「ゆ、祐希、怪我は大丈夫? ……ちょっと待ってて」


 カバンの中からハンカチを取り出して俺の顔に付いた血を拭おうとしたが、むしろ茜の身体の方が心配だ。


「俺は大丈夫だ。茜は着替えあるか?」


「あっ、うん、教室に行ったら替えのジャージが……、ねえ、薫子さん大丈夫かな?」


 顔中血だらけで、ボロボロの状態であるのを見てポツリと呟いた。


「俺が応急処置をしておく。……自分でやっておきながら、これはひどいな……」





 俺と茜が動こうとした時、教室の外から声が聞こえてきた。


「茜ーー!! だ、大丈夫かーー!!!」


 山田に肩を借りながら必死の形相で教室の中を見渡す鮫島。

 山田は小さな悲鳴を上げていた。


「ひぃ……な、なんだこの状況は……」


 男達が倒れていて、俺と鮫島姉はボロボロの状態。

 茜は水浸しだ。


 山田の後ろから香織さんが飛び出してきた。

 茜の惨状を見て青い顔になる。


「茜っ! だ、大丈夫……、わ、私タオルあるから……。カマ子っ、ちょっと教室まで行ってジャージ取ってきてくれる!?」


「うん、す、すぐ行くわぁ!」


 カマ子は教室を飛び出して行った。


 香織さんは自分のタオルで濡れた茜を拭き始める。


「……ひどいよ……こんなに冷えちゃって……」


 茜はそんな香織さんに優しい声で言った。


「カオリン……わがままばっかり言っててごめんね……。私……ちゃんと素直になるね……」


 香織さんは茜の頭をタオルでぐちゃぐちゃに拭く。


「バカッ! 私だって悪かったのよ……可愛くて人気者の茜に嫉妬してたし……。ねえ……また一緒にあそぼ……」


「カオリン……」


 鮫島は二人を安堵の顔で見つめながら、俺と鮫島姉の所まで近づいてきた。

 やはりその動きはおじいちゃんみたいにゆっくりであった。


 鮫島は俺に頭を下げる。


「祐希、ありがとう。……茜を守ってくれて」


 鮫島は腰を下ろして、自分の持っていたタオルで鮫島姉の血を拭き始めた。


「おいおい、あの姉貴がこんなになっちゃうなんて……。なんだろうな、嬉しいと思ったけど全然嬉しくねえな……」


「鮫島……すまん」


「ばっか、祐希は悪くねーよ。……このバカ姉貴が全部悪いんだよ。なっ、姉貴……うわぁ!?」


 鮫島姉は目を開いた。

 意識が朦朧としているのか、焦点が定まっていない。


 これを自分がやったと思うと、いくら鮫島姉がしでかした事を考えてもやりすぎなんじゃないか? と思ってしまう。


 鮫島姉は呟いた。


「……弟」


「ほら、姉貴、あんまり動くな。……俺がおぶってやるからさ」


「私、あなたの事……ボコボコにしてたのに……」


「うるせーな。どんな奴だろうと、姉貴は世界で一人しかいないしな。仕方ねーよ、ふん」


 鮫島姉は無言で一生懸命、血を拭っている鮫島をぼーっと見ていた。

 その顔は何か憑き物が落ちたようであった。


 カマ子がジャージを持ってきて、茜が香織さんに付き添われてトイレで着替えに行く。


 山田は三人の男達を見ながらブツブツ呟いていた。


「……あんたら野球部のOBじゃん。マジで……。あっ、誰か来るぞ?」





 カツカツと廊下から足音が響く。

 教室の現れたのは、禿げた指導教員であった。


 教室の惨状を見るや、いきなり一喝した。


「こらーー!! 貴様ら、これはなんだ? おい? また貴様か、田中? この暴力男が!!」


 実際俺が暴力を振るったから弁明のしようがない。


 俺に近づこうとする指導教員の前に、茜は立ちふさがった。


「祐希は悪くないです。……私が薫子さんからいじめられている所を助けてもらっただけです!」


 指導教員は茜の冷めた目で一瞥した。


「はんっ、知るかそんなもの。鮫島会長がそんな事するわけ無いだろ? どうせ貴様があそこに転がっている男でも連れ込んでトラブルでも起きたんだろ? 貴様らが悪いのは確定だ!!」


 茜はそんな言葉を聞いてよろよろと後退る。香織さんが茜の身体を支える。


「あん? なんだその反抗的な目は? 俺は学校主任を兼ねてる指導教員だぞ? 貴様らの内申を自由に操作できるぞ?」


 大人が何を言ってるんだ?

 お前らは外から生徒を見ているだけで、良い所しか見ようとしないじゃないか?

 だからいじめの現状を理解できない。

 生徒の心を理解できない。


 理解しなくてもいい。少しでも歩み寄ってくれれば……それで……。


 指導教員は鮫島姉のひどい有様を見て俺に怒鳴った。


「……貴様!! 鮫島会長を……。これは退学だ。――ふんっ、警察沙汰にはしないでやるからさっさとこの学校から出ていけ!!!」



 ――腹の底から怒りが湧き出る。



 だが……俺が暴力を振るった事実は消えない。いくら鮫島姉が茜に攻撃してとしても……学生同士のじゃれ合いで済む問題じゃなくなっている。


 ……暴力は人の心を傷つける。それは振るった人間側もだ。


 後悔はしていない。鮫島姉の顔を見ろ。


 子供みたいに鮫島にひっついて、穏やかな顔で鮫島のされるがままにされていた。

 鮫島姉は鮫島に支えられたまま、指導教員に向かって小さな声で呟いた。


「……もう止めなさい。この件は見なかった事にして」


 指導教員はそれを鼻で笑い飛ばした。


「――小娘がうるさいぞ。いつもいつも俺に命令しやがって……会長ごときが俺に命令するな。俺が退学にするって言ってるんだ? だから退学なんだよ! お前も退学にされたいのか!!」


 鮫島姉は一瞬だけ目が見開いた。

 まるで裏切りにあったかのような驚き。


 指導教員は気持ち悪い笑みを浮かべながらスマホを取り出そうとした。


「ふん、証拠は取って置かなきゃな。……どれ、もっと苦しそうな顔を……」


 こいつがスマホを鮫島姉に向けた瞬間、俺は力を振り絞って、スマホを奪い取った。


「き、貴様!? お、俺に暴力を振るうつもりか! か、返せ! スマホを返せ!!」


 暴力を振るう……。


 そうだな。これで最後にしよう。


 俺は指導教員を睨みつけた。


 身体に力を入れる。

 スマホを鮫島に軽く放り投げる。


 鮫島姉の呟きが聞こえてきた。


「……っ祐希、なんとかするから……そんなクズは放っておいて……」


 教室に緊張感が高まる。






 それを打ち破る声が聞こえてきた。


「――うわぁっ!? って、卒業生の不良君じゃん!? うわー、凄い状況……」


 俺たちの担任の先生が教室の入り口に立っていた。

 その後ろには……佐藤さんの顔が見えた……。


 先生は俺と指導教員の近くまでやってきた。。

 飄々とした感じで指導教員に言い放つ。


奥村おくむら先生、ここは生徒達に任せましょう? ね、鮫島さんも田中君もやりすぎたって分かってるでしょ?」


 奥村と言われた指導教員の先生は俺達の担任の胸ぐらを掴む。


「貴様、上司に命令するのか!! 解雇してやるぞ? 俺に逆らったやつは今まで」


 担任はその手を払いのけて、俺に言い放った。


「後は大人に任せろ。……かーっ、俺がただ合コンに行っていただけと思うなよ? ほらよ!!」


 担任は写真をばらまいた。

 そこに写っているのは……年若い女の子と密会している奥村の写真であった。


 奥村は慌ててそれを拾い始める。


「お、お前、これをどこで!? み、見るな!! 見るなーー!!!」


 担任は呟く。


「はぁ〜、生徒に手を出すなんて最悪だよ。……あんたはこの子と浮気してたけどさ……他にもあるだろ?」


 担任の先生は鮫島から奥村のスマホを回収する。

 奥村は力無く担任の足にしがみついた。


「や、やめろ……やめて……下さい……」


 担任がスマホを奥村に向けて、ロックを解除する。そしてポチポチ操作して、俺達に画面を向ける。

 ……そこには見るに耐えない写真が映し出されていた。


「はぁ、盗撮にセクハラ……マジ死ねばいいのに……。同じ教師としてありえないわ」


「そ、それは違う……俺ははめられたんだ……」


「言い訳はいらないよ。勇気がある生徒が告発してくれたんだ。……絶対こんな事許さない」


「そうだ、お前にもいい思いさせてやる! だから、目をつぶってくれ!!!」


 担任の先生は奥村の襟を掴んで顔を上げさせた。




「――ふざけるな!! 俺の大切な生徒に手を出すんじゃねえ!! ……奥さんには連絡したよ。すぐ来るって……はぁ……あんた子供がいなくて良かったな」




 奥村は絶望の顔で天井を見上げていた。


「うぉぉぉおぉぉぉぉーーっ!!!!!」



 先生は見たことがないような真剣な顔で俺たちに告げた。




「後は大人の領分だ。お前らは帰って風呂入って寝ろ。……生徒同士の喧嘩なんて日常茶飯事だろ? ほら、さっさと行け!」





 鮫島が姉を背負う。

 山田がそれをフォローする。

 香織さんが濡れるのも構わず、茜に抱きつきながら歩き出す。


 佐藤さんが俺の横に心配そうな顔でやってくる。


「……田中、ごめん。何も出来なかった」


 俺は佐藤さんの頭をぐちゃぐちゃに撫でる。


「――わ、こら。……乱れる」


「十分助かったよ。……ほら、帰ろうぜ」


 俺たちは教室を出た。


 そしてカマ子が空気を読まずに言い放った。



「――ねえぇ? 祐希と佐藤さんってぇ、付き合ってるのん? あれ? でも茜といい感じだったよねん? しかも隣のクラスのクリスに言い寄られてる噂もあるよね?」



 ――俺の背筋に汗が流れる。い、今はそれどころじゃないだろ? さ、鮫島? 目が怖いぞ? 姉が落ちそうだぞ!? 



 茜と佐藤さんは顔を見合わせて、焦っている俺を見て笑い合っていた。






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