暴力は嫌いだ
泣き顔の茜は自分の身体を抱きしめながら呟いていた。
「祐希……祐希……」
全身水浸しで……見るも無残な姿の茜。
だけど、目の光は消えていない。
……怖がって、俺に助けを求めた普通の女の子。
――初めてだよな? 俺を頼ったのって?
ずっと強気で素直じゃなかった俺の大切な幼馴染。
本当は膝を震わせながら俺の事を守ってくれていた茜。
俺の胸が高鳴る。
怒りで真っ赤に染まりそうな俺の視界がクリアになる。
俺は全身から力が湧き上がる。
それは怒りだけじゃない、憎しみだけじゃない。
茜を助ける。
その思いが俺の身体に染み渡った。
俺は熱が込もった声で鮫島姉に告げた。
「…………茜に手を出したな?」
鮫島姉は大きな口を開けながら大笑いをしていた。
――何がそんなに楽しいんだ?
「あははっ!! まさか今来ちゃうとは思わなかったよ!! ……弟が頑張ったのかな? ――まあどうでもいっか? ねえねえ、暴力が嫌いな祐希がここに来て何ができるの?」
鮫島だけじゃない。……クラスメイト全員が伝えてくれたんだよ。
鮫島と茜をこっそり尾行してたカマ子がみんなを呼んでな……。
鮫島姉は落としたバケツを蹴りつける。
バケツは金属音を撒き散らしながら、俺に吹き飛ばされた男に当たって止まる。
「へえ、威嚇も怖くないんだ……。でも祐希はこの状況をどうやって解決するの? 茜ちゃんと逃げるの?」
壇上にいた茜は俺の所まで駆け寄る。
鮫島姉はそれを見ているだけであった。余裕をカマしている。
茜は俺の前で止まる。
泣きながら……ほんの少し笑いながら俺に言った。
「……祐希。私……もう自分を隠さない……。私、本当は弱い女の子だったの……祐希、私と一緒に私を変えて欲しい……私を助けて……」
俺と一歩の距離を埋めない茜。
茜は素直になれない自分を変えたかった。自分で変えられなかったら、俺も手助けすればいい。
俺はその一歩の距離を突き破るように、茜に近づいた。
それはほとんど抱きしめているような距離であった。
俺は制服の上着を脱いで、茜の頭から被せた。
そして、制服ごと茜を抱きしめた。
「当たり前だ、茜。俺たちは大切な幼馴染だろ?」
俺の制服にくるまっている茜は嗚咽を抑えながら俺の胸に頭を押し付ける。
心に何かが入り込んで来るようであった。
――それは、熱で失くした何かが俺の中に戻ってくるような感覚。
俺の身体が熱くなる。
忘れていた感情を思い出す。
――茜と俺の幼稚園の頃の言葉を思いだす。
――結婚すりゅ!
それは胸がキュっと締め付けられるような……恋心だったんだ……。
俺はこんな感情を忘れていたんだな……。
「そろそろ茶番はいい? ねえ、大切な人を目の前でボコボコにされるのってどんな気持ちなんだろうね?」
鮫島姉はあくびをしながら俺に言い放った。
俺は茜の身体をそっと後ろへ誘導する。
「茜、待ってろ。すぐに片付けて風呂に入ろうな」
茜は俺の制服の隙間から顔を出し、『うん』と頷く。
その仕草が妙に可愛かった……。
茜は教室の後ろへと移動した。
俺は鮫島姉と向き合う。
――観察しろ。
鮫島姉は俺が来て嬉しそうだった。
そして、男達は鮫島を痛めつけた奴らの仲間だ。
容赦しなくていい。
鮫島姉は真剣に向き合ってくれる人と出会わなかっただけだ。
俺は恵まれていたんだ……。
だから俺がここで真剣に向き合ってやるよ。
「確かに俺は暴力が嫌いだ……。俺はいじめられて暴力を経験した。あれは心を壊す最悪な手段だ。……だがな、お前はやりすぎた」
俺は鮫島姉を指差して宣告した。
この方法が一番最良だ。俺と鮫島姉以外誰も傷つかない。友達もボッチも上級生も誰も巻き込まない。
「お前の一番得意な暴力で……本気で遊んでやるよ」
俺の気配が変わると、鮫島姉の顔が喜びへと変わる。
それは期待と好奇心。まだ見ぬおもちゃを手に入れた子供みたいだった。
鮫島姉は笑いを抑えきれずに、男たちに指示を出した。
「ははっ! 言うじゃん! やっちゃって! ボコボコにしていいよ!! 喧嘩した事がない男は震えて寝てな!」
「了解っす! へへ、彼女の前で恥ずかしい姿を晒してやるよ」
「お、俺は、あ、あの女を痛めつけたい……」
空気の流れがゆっくりに感じる。
クズ男たちの動きが手に取るように分かる。俺を挟む様に襲いかかる。
俺は暴力が大嫌いだ。
……暴力は身体だけじゃなく、心を破壊する。
痛みを知る者しか、分からない事もある。
痛みを知らないで強者の面を被っている奴らになんて負けない。
――俺は本能のまま近くにあった机の足を掴んだ。やっぱり慣れ親しんだ物が一番だ。
身体を回転させるように、机を振り回す。その遠心力は恐ろしい凶器と化していた。
ボキッという音が俺に伝わる。
「がっ……足が……」
「ぶほっ!? 胸が……」
クズ男たちは苦しみながら、あっけなく床に沈んでしまった。
俺の頭は冷静であるが、心は怒りで沸たぎらせる。
「受け取れ!!」
俺はそのまま机を本能のままに投げつけた。
机は鮫島姉に向かって弧を描くように飛んでいく。
鮫島姉は瞬時に身体を前転させて俺に向かってきた!?
机が壁と衝突して、けたたましい音がこの教室に響く。
俺の懐で声が聞こえた。
ねちゃりとした笑みが俺の前で広がる。
「素人が」
鮫島姉の肘が俺のみぞおちに突き刺さる。
女子とは思えないその威力は、全身のバネと力を使っているのだろう。
「――!? 硬い?」
――言っただろ? 俺はいじめられている時から筋トレが趣味だったんだよ。
鮫島姉はそのまま、突きと蹴りを連続で俺に放ち続ける。
俺は為すすべもなく鮫島姉の攻撃を食らう。
当たり前だ。俺は喧嘩なんてした事がない。
格闘技なんて経験がない。
俺が経験したのは……実験台だ……。
身体だけは丈夫だ。痛みなんて慣れてる。
躱す技術なんてない、必要もない。
鮫島姉の蹴りが俺の足を強打する。突きが顔面に突き刺さる。俺の全身に痛みが走る……。
――うん、ここだ。
俺はリズミカルな突きを片手で受け止めた。
「……え?」
合気道の動きで逃げようとするが、俺は全力で鮫島姉の拳を握り締めた。
鮫島姉の拳からバキバキという音が鳴る。
「――――つっ!? バ、バカ力にもほどがあるだろ!?」
鮫島姉は苦悶の表情を上げながら俺を何度も蹴って逃げようとする。
――逃がすか。
俺は空いている方の右手を握りしめて、鮫島姉の腹に全力でパンチを打ち込む。
鮫島姉は身体をひねりパンチを躱す。
――だけど、俺は鮫島姉の服の裾を掴む事が出来た。
「くっ……こんなもの……ぎゃっ!?」
合気道の動きで俺から逃げようとするが、俺は今度は服を掴んでいる腕をそのまま伸ばし、鮫島姉の脇腹をつねる。
俺の全身の力を指先に伝える。
「〜〜〜〜〜〜〜〜!?!?!?」
鮫島姉の動きが止まった。
俺はその隙を逃さない。
「ふぅぅぅぅ……」
今度は俺は全身に力を溜める。
「……おい、まて!? くそっ、いてて……腹の肉が……はぁはぁ、この感覚は……未体験……。――ははははははっ!!!」
鮫島姉は顔を紅潮させながら苦悶の表情で……嬉しそうな声を上げていた。
俺は机を投げる要領で……鮫島姉の身体を回転させて……回転させて、回転させて、回転させて、回転させて、回転させて、回転させて……思いっきり壁に向かって投げつけた。
軽い体重の鮫島姉はトラックに轢かれたかのように吹き飛んで、大きな音を立てながら背中から黒板の壁にぶち当たった。
「がはっ……ごほっ、ごほっ……マジか〜、受け身しても……こ、こんな衝撃……初めて……ふぅふぅ……身体が熱い……」
それでも鮫島姉は倒れずに黒板に寄りかかって俺を妖しい瞳で見つめていた。
鮫島姉の息が荒くなる。
――心を折る。
俺が鮫島姉の嫌がらせを唯一無くせる方法。
――あいつの得意な暴力で。
俺は鮫島姉に向かって走り出した。
鮫島姉の顔面めがけてパンチを繰り出そうとする。
助走をつけた俺の不格好なパンチは……鮫島姉には当たらず、黒板の一部を破壊する。
鮫島姉が避けたのか、暴力に慣れていない俺の身体が拒否反応を起こしたのか……。
鮫島姉は苦しそうな吐息で残念そうに呟く。
「ヘタレね。……次はあんたの友達もいじめちゃうわよ?」
鮫島姉はボロボロの身体を動かして、俺の腕を逆に取ろうとする。
鮫島姉の言葉に……俺は身体を心に任せることにした。
……走馬灯のように俺の頭の中には色々な事が思い浮かぶ。
優しかった茜が意地悪になった瞬間。
雪の日に熱を出したあの日。
いくつかの感情を無くして心が空虚だった俺。
佐藤さんたちに出会えた喜び。
人の優しさに触れて心を取り戻した時。
茜が変わろうと努力している姿。
山田が、鮫島が、クラスメイトが変わろうとしてる行動。
人のために立ち上がろうとするボッチ達。
そして……佐藤さんとギャル子の温かい気持ち。
――大好きな人達を守りたいんだよ!!!
俺は声にならない雄叫びを上げた。
「――――――――――!!!」
――俺は身体を回転させた。
――ガツンッ!!!!!!
俺の裏拳は……円を描いて……鮫島姉の顔面に突き刺さる。
衝撃は顔を通り越して、黒板にまで伝わる。
俺が初めて拳を叩きつけた相手……それは黒板。身体は経験している。
どんな攻撃よりもスムーズに身体が動く
鼻が潰れるぐじゃりという感触が俺の拳に伝わる。
「――がはっ……」
鮫島姉は鼻血を吹き出しながら、膝から崩れ落ちてしまった。
だが、俺は鮫島姉の胸元を掴んで身体を持ち上げた。
――観察しろ。こいつの目はまだ死んじゃいない。中途半端は無意味な結果に終わる。
鮫島姉は両目を見開き、ねちゃりとした笑みを再び浮かべた。
「ううぅ、痛いよ祐希。……私だって可哀想な女の子だったんだよ? 誰からも相手にされずに……。両親から虐待されて……」
――俺は歯を食いしばって頭突きをした。それは嘘だ。お前の身体から嘘の匂いが漂ってくる。
「ぎゃっ!? ……はぁ……凄いわ…………何で見破れるの……?」
俺は黒板に鮫島姉の身体を押し付ける。
「言っただろ? 俺が本気でお前と遊んでやるよって」
「……嫌だ。終わりたくない……もっと祐希と遊び……たい……」
鮫島姉の身体は力が抜けてきて、徐々に重たくなってきた。
「二度と学校の生徒達を巻き込むな。二度と俺の大切な友達を巻き込むな」
「……でも……祐希と……遊べなくなっちゃう……」
俺は手を離す。
鮫島姉は黒板に背もたれるように倒れてしまった。
意識を失いそうな鮫島姉に俺は告げた。
「誰も巻き込まなかったら……俺がまた遊んでやる。しばらく親元で反省してろ」
鮫島姉は嬉しそうな顔で何度も頷いて……ゆっくりと目を閉じ……なかった!?
俺の足首を掴んで引きずり倒そうとする。
くっ!? 重力に逆らうな。
俺は身体を前に倒し、そのまま肘を鮫島姉のみぞおちに落とした。
俺と鮫島姉の身体は重なり合う。
間近に合った鮫島姉の顔は……真っ赤に紅潮させたまま、嬉しそうに……白目を向いて意識を失っていた……。
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