笹身のスカート
俺は走っていた。夜のランニングである。
走ることは好きであった。難しい事を考えなくてもすむ。
この世界は俺にとって難しい事だらけだ。
それでも、俺は楽しいと思えてきた。
友達も出来て――毎日が賑やかである。
目を逸したくなるような事も多いけど、それでも皆生きている。
五十嵐と佐々木が恋人同士になって本当に良かった。
間近で見たカップルの誕生。非常に興味深いものであった。
「ふぅ、今日はこのくらいで――」
土手を降りて少しの間ぼうっとする。
俺が好きな時間であった。心が落ち着く。
土手の上から聞いたことがある足音が聞こえてきた。
リズミカルな歩調で力強い走りであった。
俺は気になって隠れて上に移動した。
真剣な顔をした笹身が走っていた――
綺麗なフォームであった。俺がアドバイスした事を自分で昇華していた。
夜も走っているのか?
関係ないはずの笹身。
だが、彼女と過ごした数カ月は俺に普通というものを意識させてくれた。
*********
「さ、笹身ちゃん、陸上部に戻らない? 頑張ってたでしょ……」
うちのクラスは陸上部が多かった。私は元陸上部員。先輩に胡麻をすって可愛がられていた。もうその先輩も陸上部にはいない。
「――え? 私って嫌われてたよね? 戻れないっすよ、ははっ」
「笹身ちゃん……、そ、そんな事ないよ! みんな戻ってほしいと思っているよ」
陸上部のこの子はとても良い子。この子以外は誰も私に話しかけてこない。
部活を途中で脱落した問題児。
私はそう思われていた。
今は昼休み。私は自分で作ったアスリート弁当を食べる。
美味しいと言えないけど、身体に良いものばかりだ。
部活を辞める前は、昼食になると私の周りにクラスメイトが集まってきた。
私は今一人だ。
クラスメイトは部活をやめた私を腫れ物のように扱う。
先輩に媚びを売って、問題を起こした生徒
陰口なんてどうでも良かった。
私は走れればいい。
走って、走って、いつか藤堂先輩に……成長した姿を見てほしいだけっす。
だから、
「中島さん。もういいっすよ。私に構いすぎると中島さんもハブにされちゃうっす」
「だ、だれも仲間はずれになんて――あっ、笹身ちゃん!」
私は弁当箱を持って教室を出た。
――媚びていた時は楽だった。だけど、一人の今のほうが楽であった。
特別クラスに入れるほど実力はない。私は普通の女の子だ。
才能なんて何もない。……藤堂先輩と巡り会えただけで、運が良かった。
だから努力しなきゃいけないっす。
誰も通らない屋上へ続く階段で座って弁当を食べる。
悲しくなんてない。先輩はもっと悲しかったはずだ。
いつしか私の基準は先輩になっていた。
私が傷つけてしまった先輩。後悔なんて言葉じゃ表せないほどの気持ち。
思い出すたびに胸が疼く。
大丈夫っす。私は普通だけど、心は強いっす。
だから、先輩とは二度と話せなくても大丈夫。
クラスで一人でも大丈夫。走ることが私の罪滅ぼし。
私は弁当の残りを全部食べた。
「よしっ、お昼寝するっす!」
昼寝をするために教室へと帰ることにした。
私が教室に入ると、陸上部の女子達が話をやめた。
入部した時は私も仲良しで、昼休みはみんなでお喋りをしていた。
くだらない話も多かったけど、一種の連帯感? があって、部活を通して友達になれた。
でも今は私の周りには誰もいない。大丈夫っす。
一人が心を強くする。
全然強がってない。だって、藤堂先輩の方がもっと苦しかったはずだから――
私は自分の席を見た。
男子が座って友達と話していた。
「――ねえ、座るからどいて」
「あ? 笹身の席か……、じゃあ笹身も一緒に喋ろうぜ! 笹身って彼氏いんの? お前って性格悪いけど可愛いじゃん」
「おいおい、笹身はないだろ? こいつ清水先輩の事好きだったんだぜ? ありえねーだろ?」
「……あ? 清水さんか……、わりい笹身、それはないわ。可愛いのにもったいないな」
男子たちは雑談をしているだけだ。そこから話を広げて女子と会話をしたいだけ。女子と言っても私だけど……。
私の悪口を言っているわけじゃない。……私の過去の行いのせいだ。
「……ごめんっす」
思ったよりも暗い声が出てしまった。感情が振れ幅がわからなくなってきた。だったら人と関わらなければいい。
……道場さんに会いたいな。
道場さんはすごく努力をしている。頭が悪いのに必死になって勉強をしている。
私は全然駄目だ。もっと頑張らなくちゃ。
「なんだよ……ノリ悪いな……ほら、席空けたぞ」
男子達は悪態をつきながら私の元から去っていった。
そう、高校生なんて部活をやめただけで人間関係が崩れる。
噂は一人歩きする。
私は走る事以外どうでも良かった。先輩に償う事だけを目標に生きていた。
うるさい教室の中で、私は必死になって眠りに着こうとした。
だけど、耳にクラスメイトの声が入ってきてしまう。
「あいつ落ちたよな」
「昔は可愛かったのに」
「性格悪いわよね」
「遊びに誘っても来ない」
「媚びを売る態度が嫌いだった」
「でも、悪い子じゃないよ」
「それは知ってる」
断片的な声であった。
私は耳を塞ぎたかったけど、それを聞き続けた。
だって、私が苦しくなる。罰を受けている気分になれる。
許されない私が唯一許されると思える瞬間であった。
ずっとそんな日が続いた。
私はストイックに走り続けた。
朝も夕方も夜も――練習をする。
怪我だけには気をつけていた。
疲れが溜まっていたら授業中寝ていた。
先生には怒られた。クラスメイトの笑いものにされた。
断片的な声が私の頭の中に残る。
帰りのチャイムがなると、私は一番に教室を出る。
早く練習するためだ。
早歩きで廊下を歩く。
「笹身ちゃんー!! 待ってっ! はぁはぁ――」
靴を履き替えている時に、中島さんが私を追ってきた。どうせ同じ話だろうと思って、私は無言で中島さんを見た。
「笹身ちゃん……顔色悪いよ……。ねえ、陸上部で一緒に走ろうよ。みんな待ってるよ!」
そんな事ないっす。
誰も私なんて必要としていない。
みんな私を笑えばいい。
私は一人で大丈夫っす。あれ? 道場さんと連絡取っているから一人じゃないのかな? ははっ、まだ私にも弱い部分があった。
もっとストイックに――
「大丈夫っす……。ほら、陸上部の練習遅れちゃうっすよ。私は陸上部やめて楽しんでいるっす! だから心配しないでほしいっす」
「違うの!!」
「へっ?」
中島さんの大声で私は変な声が出てしまった。
どうしたんっすか?
「さ、笹身さんを見ていると辛いの。……部活やめちゃって……一人ぼっちで辛そうで……苦しそうで……、ねえ、みんなで走ろうよ? 笹身さんいつか壊れちゃうよ?」
藤堂先輩の気持ちが少しだけわかったかも知れない。
私は全然大丈夫。一人で大丈夫。普通の人は努力しなきゃ上に行けないっす。
「――ありがとうっす。でも、練習に行かなきゃ」
今日は大学の練習に交じる予定。
……大学生は怖くて厳しくて高校生の私のことをイビるけど、良い経験になる。
早くいかなきゃ。
中島さんを見ていると、私の心が折れそうになってくる。
私は自分を痛めつけなきゃ――ストイックに――
だって、速くならないと――先輩に顔向けできない。
「あっ、待って――」
中島さんを置いて私は走り出した。
全速力に近い速度。
息がすぐに上がりそうになる。
ローファーが地面の衝撃を吸収しなくて、足が痛い。
それでも、私は走る。
苦しいのはみんな同じ。私はずるい女だった。
こんな私が陸上部に戻る資格なんてないっす。
清水先輩も私のせいで首になってしまった。
私が媚びを売らなければ誰も傷つかなかった。
全部私が悪いんだ。
私が自分の気持ちに嘘を付いて、先輩の事を悪く言って――
先輩との朝練が頭に浮かんだ。
それは不器用だったけど、優しくて頼もしくて――先輩と一緒にいて楽しい時間であった。
もう二度と戻らない過去。私の罪。
涙が出てきた。涙が枯れるほど泣いたはずなのに。
私は悲しむ資格なんてない。
だって――あっ。
周りを見ていなかった。
硬い大きい何かにぶつかってしまった――
私は地面に倒れる。大丈夫、怪我はしていない。
「先生!? 大丈夫ですか!!」
見上げると、そこには黒い服を着た大きな男の人が立っていた。周りにいた人達が焦った声を出している。
まるで漫画に出てくるような筋肉むきむきの大男。頭はハゲでいて顔に無数の傷がある。
私、ぶつかっちゃったんだ……。
あ、あやまらきゃ――
私は慌てて起き上がろうとした。
あれ? 足に違和感が――、まさか……ひねったの?
その感覚に私は焦りを覚えてしまった。
怪我なんて出来ない――
大男が腰を下げて私と同じ目線になる。
あっ、これは駄目な人だ。背筋が凍り付いた。謝らなきゃ――でも怖くて声が出せない――足が震えて倒れそうになる。
その時、私の頭に温かい何かが置かれた――
後ろから声が聞こえた。
「――失礼、うちの弟子が粗相をかけたようだ。大変申し訳ない」
「ふえ?」
自分が出した声じゃないと思った。なんで安心しきった声が出ちゃったの?
だって――
先輩は大男の目をまっすぐに見つめながら頭を下げていた。
あっ、わ、私も――
「す、すみません――でした」
私も頭を下げて謝った。
胸がドキドキする。色んな事が起こりすぎてわけがわからなくなる。
罪悪感が胸を締め付ける。私のせいで先輩が謝って――
大男は鼻を鳴らした。
「ふん――ガキのやった事だ。どうでもいい。……てめえの子分ならちゃんと面倒みておけ」
「はい、以後気をつけます。俺たちはここで――」
「いや、まて。――お前本当に高校生か? そんな目出来るなんて――どんな人生を送ってきたんだ? ……真っ当な道に進んでるのか……。そうか、そういう奴もいるんだな……」
大男は黒塗りの車に乗り込んでいった。
車が走り去る。
私と先輩だけがその場に佇んだ。
頭が真っ白になる。飛んでいた意識が戻ってきた。私はまだ何も成してない。
先輩に近づいちゃ駄目!!
「せ、先輩、あ、ありがとうございます……、わ、わたし――いっ」
動こうとしたら足に電流が走ったような痛みが起きた。
この場を去らないと先輩に申し訳ない。
先輩に迷惑かけるくらいなら足なんて壊れてもいい。成長を見てもらわなくもいい。
私は早く先輩の前から消えないと――
私は足に力を入れて走りだそうとした。
だが、先輩は私の襟首を掴んだ。まるで猫を扱うようであった。
動けなくなってしまった――
先輩は少し先にある公園を見ながら私に言った。
「あそこでいいか。笹身乗れ」
先輩は身体を回転させて背を向けた。よくわからない身体の動きで、私はいつの間にか先輩の背中に乗っていた。
足の間に先輩の手が通される。
私は腕を先輩の肩にちょこんと乗せる。
おんぶされてる――
頭がショートしそうになった。罪悪感で胸が苦しくなってしまった――
スカートがまくれているからパンツが丸見えかも知れない。先輩は絶対気にしてない――
あっ、先輩の匂い――
いつも一緒に練習してくれた先輩。冗談で先輩をからかう私。
私は自分の罪を思い出す。甘えちゃいけないんだ。
先輩――優しくしないでほしいっす――
私はそんな資格がないっす。
「――笹身、速くなったな」
唐突に言われたその言葉が、私の全部を破壊した――
嗚咽を殺す事も出来ずに私は先輩の背中で泣いてしまった。
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