自己満足
背中で泣きじゃくる笹身の重さを感じながら俺は近くの公園に移動した。
何故彼女は泣いているんだ? あの大男が怖かったのか?
笹身は感情が溢れて涙を押し殺せないでいる。
笹身のしたことは記録にある。あの時の事は悲しい出来事であった。
今は笹身の事は嫌いでも何でもない。
俺に関わりがない人間という認識であった。道場から聞いた話では笹身は頑張っている、という事だけだった。
違う、俺は笹身が少し心配だったんだ。
練習をしているのは聞いていた。ストイックに走っていた。
何も不都合はないはずだ。このまま俺と笹身は関わらずに生きていく道もあったはずだ。
夜のジョギングの時に見かけた笹身は速くなっていた。
俺は何故か嬉しくなった。嬉しいか……、不思議な感情である。
自分が速くなったわけじゃないのにそんな感情を抱けるんだ。
道場の時もそうだ。放っておけなかった。
だから、俺は学校を飛び出すように走り出した笹身を思わず追いかけてしまったんだ。
「下ろすぞ」
俺は公園のベンチに笹身を下ろした。
公園は子供達が遊んでいるだけでほとんど人気が無かった。
ふむ、主婦達は夕飯の準備で忙しいのだろう。俺も今日のご飯を考えなければならない。
「も、もう大丈夫っす……。せ、先輩には迷惑をかけられないっす」
俺は腰を下ろしてベンチに座っている笹身の足を診た。笹身の言葉は弱い。本当に否定したかったら……この場を離れるはずだ。
足を躊躇なく触る。
「いたっ……、で、でも歩けないほどじゃないっす」
俺はなんでさっき弟子なんて言ったんだろう?
とっさに声が出てしまった。あの男は普通の世界の人間ではなかった。
思わず素が出そうになってしまった。
俺は笹身の足の位置を変えながら触診する。
「や、ま、は、恥ずかしいっす……。せ、先輩、わ、私は一人で大丈夫っすから……」
道場から笹身はいつも一人ボッチでいると聞いた。
一人は……寂しい。それでも一人でいると強くなれる子もいる。
道場だ。道場は清々しい顔をしていた。強がってもいなく、自然体であった。
だが、笹身は――
「では何故そんな苦しそうな顔をしている? 俺と話したくなければ走ってどこかに行ける筈だ。何故だ?」
笹身の顔が崩れそうであった。
強がっていた何かが破裂しそうになる。感情が爆発しそうになる。
笹身にとって触れられたくない事なんだろう。
俺も経験した事があるからわかる。
「そっすね……、ははっ、私本当に馬鹿っすね。一人は寂しいっす……。でも甘えている自分が大嫌いっす。今も先輩に甘えて……私、気持ち悪いっす」
笹身が泣くのを我慢している。大丈夫だ。俺はみんなのおかげで普通の青春を体験出来ているんだ。
その中には、笹身も入っている。
俺の事を師匠と呼んで慕ってくれた。朝のジョギングが楽しいものに変わった。
笹身の心の醜さも体験した。後悔の感情も伝わっている。
人は間違える。笹身は俺を傷つけた。
だが、笹身は無理をして傷つく必要がない。
――俺と同じ事をしたら壊れてしまう。
「苦しいのか? それは……俺を傷つけた後悔からか? それとも陸上部を辞めたからか?」
「……あ、は、はい。ちゃんと速くなってから先輩に謝りたかったです。私、馬鹿だからどうしていいかわからなかったです。陸上部なんてどうでもいいっす。私……」
この言葉には嘘の匂いがあった。
ならここで笹身にわからせる必要がある。なぜそう思ったかわからない。
俺は自分の感覚を信じた。
「笹身、自分を苦しめても意味がない。それは楽な道だ。陸上部をやめたら楽だったんだろ? クラスメイトと話さなくなって楽だったんだろ? 苦しんでいる自分を見たら楽になったんだろ?」
「わ、私……、く、苦しくないっす……。だって、私許されない事を先輩に……」
苦しめばいつか許される。そんな事はない。苦しみは精神を殺す。
心の痛みはゆっくりと身体を蝕む。
俺は笹身の隣に座った。
思った事を口にした。
「笹身が速くなって嬉しかった。陸上部を辞めたと聞いて少しだけ悲しくなった。無関係な人だからどうでもいいと思った。それでも、ふとした時に笹身の事を思い出す時がある。嫌いになったわけじゃない。関係をリセットしたんだ。もう話さないと思っていた――」
俺は思った事を言葉を並べてみた。
笹身の苦しみは罪を償う何かにならない。
笹身は俺が言葉を発するたびに小さく頷く。
ふと、妹がいたらこんな感じなのかと思ってしまった。
……大変である。
「俺は田中や花園から普通の心を学んだ。まだまだわからない事だらけだ。道場だってもがきながら前に進んでいる。……笹身のその生き方は足踏みしているだけだ。――笹身、自分でもわかっているんだろ?」
「……苦しいと楽です。だって、ひどいことをした私は苦しんでも――」
俺は笹身の言葉を断ち切った。
非常な現実を告げる。
「笹身の成長の限界はここまでだ。これ以上速くなる事はない。生まれ持った身体能力が悲鳴を上げている。……それに、笹身が何かの大会で優勝したとしても、それはただの自己満足だ、俺には関係ないことだ」
夜のランニングの時にわかった。身体が悲鳴を上げていた。限界まで引き上げられた走力はこれ以上成長出来ないものであった。学生ではトップレベルの速さ。それ止まりである。
笹身は身体を震わせていた。
絞り出すような声で俺に言った。
「流石先輩っす。そのとおりっす。いくら走っても速くならないっす。練習したらもっと速くなると思ったっす。色んな大人から『普通の陸上部にもどれ。お前は才能がない』って言われたっす。ど、努力だけじゃどうにもならなかったっす」
笹身は自分の足を見ながら続けた。
「もうどうしていいかわからないっす……。だから、走るしか出来なかったっす。私馬鹿だから……。自分を苦しめれば楽になれたっす」
俺は中学の頃を思い出した。
自分だけが犠牲になればクラスが効率良く回る。
俺は笹身をベンチから立たせた。
「え? せ、先輩? きゃっ!?」
再び笹身を背中におんぶして、俺は歩き出す。
「せ、先輩っ! もう大丈夫っす! 先輩と話せただけで満足っす! み、道場さんに怒られるっす!」
俺は笹身の言葉を無視して、二人で走ったジョギングコースへと向かった。
歩く速度が段々速くなる。
「しっかり固定して掴まってろ」
歩きが走りに変わる。
速度をどんどん上げる。
「せ、先輩!? お、おんぶしながら走ったら身体壊しちゃいます!! せ、先輩が怪我したら――」
「うるさい、喋るな。舌を噛むぞ。弟子なら師匠の走りを見ろ」
俺は女の子に向かって初めて声を荒げたかも知れない。
ウジウジしている笹身を見るのが嫌だった。
自分を壊そうとする笹身が嫌だった。
だから俺は走りたくなった。
誰にも見せたことがない、本気の走りを。
笹身の重さは感じない。そんなやわな鍛え方をしていない。
体中の筋肉が喜びを上げる。思う存分力を出せるって。
俺は前しか見なかった。
笹身は俺にしがみつきながら呟く。
「……こ、このペースって……私を背負いながら……えっ、また速くなった!?」
俺は更にペースをあげた。今は半分の力だ。ジョギングコースはまだまだ長い。
やはり走ると気持ちがいい。笹身は順位にこだわりすぎだ。
俺には誰かと競うという事をしたことが無かった。
だから、大会という枠組みには興味が無かった。
ただ、友達がいればいい。
それが俺の願いだ――
「わ、わわ――すごい……。は、ははっ、なんで私……。え、また速くなった!」
笹身の声が段々と楽しそうなものと変わっていく。
理由は俺になんてわかるはずもない。
そんなものどうでもいい。
今この場は俺の息遣いと、笹身の泣き声が混じった笑い声だけが聞こえた。
「ふぅ、久しぶりの本気だ。これは誰にも見せたことがない」
笹身を優しく土手に下ろした。
笹身は腰が抜けたように、土手に転がった。
「ふふふっ、才能か……。絶対ムリっすね。私、何やってたんだろ……。子供みたいに拗ねて空回りして、心配してくれる友達の事を無碍にしちゃって……」
「ああ、俺達はまだ子供だ。間違える事なんて沢山ある」
笹身はゆっくりと立ち上がった。
俺は笹身の足が心配で手を貸そうとした。が、笹身は吹っ切れたような笑顔でそれを首を横に振った。
「今度は本当に大丈夫です。先輩、ずっと謝りたかったです。馬鹿な事をしてごめんなさい……」
笹身は深く頭を下げた。ゆるい雰囲気はない。心が籠もっている。
俺の心に温かいものが流れた。これはなんだ?
田中や花園の事を考えた時の気持ちと違う。
それでも嫌なものではなかった。
笹身は頭をあげなかった。
俺は恥ずかしくなってしまった。
「あ、ああ、俺はこれで帰る……。あっ、結構遠くに来てしまったが時間は大丈夫か?」
顔をあげた笹身は俺に元気良く言った。
「はいっ! 大丈夫です。私……歩きながら色々考えたいです。陸上部の事やクラスの事や将来の事を……。お兄ち――せ、先輩……ありがとうございました。私自分なりに頑張ります!」
俺は笹身の勢いに圧倒されてしまった。
まるで人が変わったみたいに雰囲気が変わった。
なるほど、笹身は本当は可愛らしい少女であったんだな。
「そ、そうか、俺は軽く流しながら帰る。……暗くなるから気をつけろ?」
「はいっ! ご心配ありがとうございます。途中でお母さんに迎えに来てもらいます」
俺は走り出した。笹身が後ろで俺を見送っている気配を感じる。
俺は何が出来たんだ?
理由はわからないが、笹身は変わることが出来た。
俺は本気の走りを見せただけだ。
泣きじゃくる笹身は妹に見えた。そんな存在はいないはずだ。
道場と比べて精神が幼かったんだろう。
やっと年相応の笑顔が見れた。
俺は笹身と走ったジョギングコースを走る。
嫌なこともあった。それでも前に進めた。
俺は満足感を覚えていた。
人の成長を見ることで、俺が満足感を覚えるのか?
田中と花園、五十嵐と佐々木の時とは違う。
二度と関わりたくないと思っていた。
だけど、今は――見守りたいと思えるようになった。
人との関わりは難しい。人を通して自分が見えてくる。面白い感覚である。
俺はなんだか嬉しくなって、再び本気を出して走り始めた――
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