田中と始まり
俺の歩く速度が早くなる。
頭で同じ言葉を繰り返す。――田中を信じる。田中を信じる。
「と、藤堂、待ってって――」
田中が小走りになっていた。俺はそこまで考えることができなかった。
俺は立ち止まった。
「きゃっ!? び、びっくりするじゃんよ! もう……ねえ、ゆっくり歩こうよ? 時間はまだあるよ? や、やっぱり……私の事……嫌になっちゃたの?」
「大丈夫だ――」
どうしても言葉が紡ぎ出せない。俺は田中とどのような顔で話せばいいかわからない。
リセットしなかった感情が俺に襲いかかる。
嫌な気持ちが胸の辺りでモヤモヤしている。
気にするな――
リセットしたら楽になる――
前に進むなら立ち向かえ――
一人で考えていちゃ駄目だ。だって、田中は友達なんだ。逃げるな――
「行こう――」
「うん」
田中は言葉少なに俺に返事をした。
「ねえ、ちょっと待って、カフェに行く前に聞いてほしいじゃん」
田中は小さな公園を指差した。都会の真ん中には公園が沢山ある。サラリーマンや、OLさんたちがご飯を食べる憩いの場になっている。
俺たちはベンチに座った。
沈黙が流れる。
普段は田中と一緒にいる時の沈黙は気まずくなかった。でも、この沈黙は俺の気持ちを不安にさせる。俺は何が不安なんだ? 何が聞きたいんだ?
田中は頭を俺の肩に乗せた。
まるで、犬が――甘えてくるような仕草であった。
田中はゆっくりと喋りだした。
「――リセットしてもよかったじゃん。藤堂の心を苦しめちゃったじゃん……。ねえ、私、男の人に絶対こんな風に甘えたりしないじゃんよ」
俺は田中の匂いを感じて、心が乱れてしまう。
田中は優しい声で続けた。
「私さ、昔っから人付き合いが苦手でね。……距離感がわからないじゃん。子供の頃は良かったよ? でもね……思春期になると……男の人が勘違いしちゃうじゃん……」
俺は田中の頭の位置が痛くないか? 汗臭くないか? このまま手を握っていてもいいものなのか? そんな事ばかり考えてしまう。
田中は固まっている俺に微笑んで続ける。
「中学生の頃かな、近所の男の子と一緒に学校へ行ってたの。そしたらいきなり付き合ってるって噂が流れて――、否定しても男子は否定しないじゃん……、それで、わざわざ好きじゃないって言わなきゃいけなくて……。意味わかんないじゃん? 告白もされてないのに『雰囲気で付き合ってるかと思った』とかさ……。さっきのカラオケの男もそう。馴れ馴れしい先輩だったんだけど、いきなり俺の女呼ばわりされて……、ムカついたから、上級生のクラスに行って盛大に振ってやったじゃん!! そんな事が一杯あっただけよ……」
「――だから……田中は友達を作らないのか?」
「うん、バイトでも藤堂とシェフしか雑談してないでしょ? あっ、弟には優しいよ? わたしの事超好きだから、いつも送ってくれたり、守ってくれるじゃん。良い子だよ。――それ以外は友達作るつもりなかったし、そのために特別クラス入ったじゃん」
自分の手汗が不快じゃないか心配になってきた。
汗はほとんどかかないのに、何故か汗をかきそうだ。
疑問を投げかけてみた。
「何故、俺と――友達になれたんだ? 普通じゃないからか?」
「えっと……、初めはね……、何考えているかわかんなくて、常識外れの行動も起こすし……迷惑かけられてばっかりだったじゃん? ……でもね、藤堂の心はすごく綺麗だったの――今まで出会った事がないじゃんよ」
――俺の心が綺麗? 俺は汚い人間だ。何も出来ない。人を救う力もない。
力なく首を横に振った。
「華ちゃんの事羨ましかった。だってさ、藤堂と一緒にご飯行ったり、買食いしたり、いろんな事してたじゃん。華ちゃん素直になってほしいな〜〜って思った矢先に……」
「俺のリセットか――」
田中が自虐的に笑った。
「うん、ははっ……。わたし嫌な女じゃん。だって、藤堂と一番仲良くなれたのって私じゃんっ! って思っちゃったの。でも、やっぱり華ちゃんと話している藤堂を見ると――仲直りして欲しいと思ったじゃん。だから――背中押したじゃん――」
あの時の事か。
確かに、田中の後押しが無かったら、俺は花園と二度と喋らなかったかも知れない。
田中との交流がなければ、道場も笹身も冷たく切り捨てるだけであった。それは――悲しい事だ。
俺は握っている田中の手から感じる温かみが愛おしく思えた。
田中は俺の手を離した。
俺の声が漏れる。
「――あっ」
「うーんっ! 元気一杯もらったから大丈夫!! 今日は華ちゃんと一杯計画練ってたんでしょ? 華ちゃんってやっぱ、綺麗で素敵な女の子じゃん! ……藤堂、絶対幸せにしなきゃ駄目じゃんよ!!」
俺は田中の言葉が理解出来ないかった。それじゃあ、俺と花園が付き合うみたいじゃないか? ……花園はとても素敵な友達だけど――
田中はベンチから立ち上がって、背伸びをする。
俺も釣られて立ち上がった。
「ほら、行こっ!!」
そういえば、田中と喋ったら胸の奥のモヤモヤが消えていた。
――田中の不安は全て取り除いておこう。弟君の連絡先を聞いておかなければ。彼は力強い味方になるだろう。田中を外敵から守るために。
「よしっ、それでは早速、弟君の連絡先を教えてくれ」
「はっ!? な、なんで突然!? ぷ、ぷははっ、やっぱ藤堂って面白いじゃん!!」
田中は俺の手をじっと見つめて、一人つぶやく。
そして俺の手を再び握るのであった。
「……今日だけ許して、華ちゃん」
小さな呟きが聞こえた――
田中と一緒にカフェで飲んだジュースは格別な味がした。
もちろんこのカフェのジュースはいつも最高である。
なのに、今日は更に素晴らしいものに変化していた。
「あははっ、藤堂って本当にジュース好きなんだね? ていうか、甘いもの好きすぎじゃん? この後ケーキ屋さんに行く?」
「ケーキ屋さんか……。確かに俺一人では入りづらい場所である」
「なら決まりね! あっ、藤堂のプランではどこに行くつもりだったの? 華ちゃんと計画立ててたんでしょ?」
「カフェの後は動物園というところに行って、その後買い物をして……シェフの店で食事をする予定であった」
何枚もレポートを書いた。田中が喜びそうなところを研究して、田中の事を考えながら計画を立てた。その時間は苦じゃなかった。心躍るものであった。
「うわぁ……マジデートじゃん……。そ、それって勘違いしちゃうじゃんかよ……」
「勘違い? 俺は田中に楽しんでもらいたいだけだ。……い、嫌だったか?」
田中はジュースのグラスに添えられていたオレンジをパクリと食べながら俺にいった。
「馬鹿っ、う、嬉しすぎるじゃん……。ふふっ、弟以外と出かけるのなんて初めてじゃん……。じゃあ、ケーキ屋さんは最後にして、動物園に行こ!!」
「ああ、了解だ」
何故だろう。俺は間違っていないと確信している。
だけど、田中から感じる――嬉しい気持ちの中に隠された――寂しい気持ちが俺を不安にさせた。
動物は好きだ。
人間と違って煩わしい感情を持つ必要がない。
いつか……犬と一緒に暮らしてみたいな。
「あははっ、と、藤堂、わんこだらけじゃん!! 好かれすぎじゃんか!」
動物園にはわんにゃんランドという施設があった。犬と猫と戯れる事ができる。
俺の膝の上にはポメラニアン、パグとチワワが身体を擦り付けている。
何故か仔犬の柴犬が俺の頭に乗っている。
「む……、動けない」
「いいよ、そのままで! 写真とるじゃん! あっ、私も入るからね」
田中はスマホを片手で持ち、俺の膝の上に乗っているポメラニアンを抱き上げ、田中がそこにちょこんと座った。俺は田中の距離の近さに驚いてしまった。
「た、田中、少々近すぎでは――」
「ば、馬鹿、わ、私だって恥ずかしじゃん……、い、言わないの」
田中はピースサインをしながら自撮りを試みる。
俺からは田中の顔が見えない。
「わふんっ!!」「ばうばうっ!!」
パシャリという音が犬の鳴き声とともに施設に響く。
田中は恥ずかしそうにしながらも、俺に写真を見せてくれた。
そこに写っている田中は――顔を赤くして――嬉しそうな表情であった。
とても可愛くて……愛らしくて……俺は心に記憶した。
「わ、わわっ、わんこがおしっこしてるじゃん!! ちょ、藤堂っ」
「問題ない。子犬だから仕方ない」
俺は照れ隠しで、おしっこしている犬の頭を撫で続けた。
時間が過ぎるのが早かった。時間の流れは一緒のはずだ。なのに楽しい時間は早く感じる。
今度レポートを書いてみよう。脳の研究でいいのか? 興味深い分野である。
俺は普通の高校に入る事が出来て本当に良かった。
灰色だった世界が色づいて見える事ができた。
人は心を壊す事もできるし、心を成長させる事もできるんだ。
もっと普通というものを体験したい――
突然、俺は胸が苦しくなってしまった。
俺は本当に幸せになっていいのか? この生活を続けててもいいのか?
親の顔は知らない。俺を育てた大人は消えてしまった。
幸せを感じると――悲しみが押し寄せるのは何故だ?
ああ、そうだ、時間は……有限だからだ。
俺たちは夕暮れ時の公園のベンチで座っていた。
「うぅーんっ! 今日は楽しかったじゃん! 藤堂って初めてあった時よりも、本当にわかりやすくなったね」
「成長できたのか?」
「うん、最初の頃は殺し屋かと思うくらい鋭い目つきだったじゃん。――今は優しいよ」
やはり俺は他人から見たら怖く見えていたんだな。
「あっ、華ちゃんのおかげかな? 華ちゃんって藤堂の事ばっかり考えてるじゃん……。すごいよ」
「ああ、花園は大切な友達だ――」
田中はベンチから立ち上がった。どうした?
「藤堂……、華ちゃんの事好きだったんでしょ? ならさ……、もう一度……華ちゃんとちゃんと向き合ってね」
「俺は花園とちゃんと向き合ってるぞ?」
田中は首を振った。夕日に照らされた田中の顔はとても美しかった。なるほど、馬鹿な男子が勘違いするのもわかる。……俺は――勘違いする余地もない。俺は――普通じゃない俺は誰とも付き合ってはいけなんだ。そう思うと、花園とリセットして良かったのかもな。
それでも、何故か俺の心臓の鼓動が早くなる。
「藤堂……、好きって難しいじゃん? 私ね……藤堂が初めて。こんなに一緒にいて楽しく思えた人。でも……一緒にいると、罪悪感がひどいじゃん……、華ちゃんと付き合えなかった藤堂を見て安心してる私が嫌い」
「田中――」
「へへっ、藤堂、リセットしてもやり直せるじゃん。藤堂は私みたいな子じゃなくて……華ちゃんのそばにいてあげて――」
手を伸ばそうとするが、身体が動かない。
喉が乾く。田中と一緒に飲んだジュースを思い出す。
わけもわからない不安に襲われる。
「だからね――愛情は全部――華ちゃんにあげるじゃん! 藤堂にとって私はお母さんみたいな存在でしょ? ふふ、藤堂見てるとわかるもん。だからね……私」
「田中、何を言っている。田中は話し合えばわかりあえると言っただろ。俺は――背中を押してくれた田中の事が――い、い、愛おしく……」
この感情はなんなんだ? 苦しい? いや、言葉に出しているだろ?
田中は優しい微笑みを俺にくれた。
ああ、お母さんってこんな感じなんだな……。
包まれるような優しさであった。
「違うの、それは……私がズルしただけじゃん……純粋な藤堂につけ込んで独占しただけじゃん。だから――藤堂の気持ちに答えられないの」
気持ちに答えられない――とういう事は田中は俺の事が好きじゃないんだ。いや、好意は感じる。
花園も田中も俺にとって大切な――――である。
大切ななんだ? 田中は俺を拒絶した。……頭でパターンを構築する。
……ぐちゃぐちゃで考える事ができなかった。
「藤堂、大丈夫。ずっと友達じゃんよ! ねっ、これからも楽しく……ひぐっ……過ごそうね!」
俺は立ち上がる。
田中の気持ちはわかるようでわからない。もう少しで解りかけている。
俺は震える膝を手で支えて――こんなに震えた事は今まで無かった。
「田中、俺は――色々な気持ちが解りかけて来た。これも田中と花園のおかげだ。もちろん五十嵐や佐々木にも感謝している。――田中は俺の……リセットのせいで罪悪感を感じているんだな?」
「うん……だって、卑怯じゃん……、華ちゃんは藤堂と付き合えたかも知れないのに……。それに、藤堂はこれからもっと色んな人と仲良くなって……、あっ、もしかしたら、そこで華ちゃんと同じくらい好きな人ができちゃったりして。でも私的には華ちゃんと一緒になって欲しいじゃん。……藤堂の世界はもっと広いじゃんよ!!」
俺は理解した。
田中は優しすぎるんだ――
「俺は――田中を信じた。……もしも、俺が田中への好意を無くして、田中の罪悪感が消えるなら――」
田中の頬を一筋の涙が伝う。
「俺は――田中への好意を――リセットする」
田中は微笑んだ。俺はその顔を忘れない。心に刻み付けろ。
「――藤堂……優しすぎるじゃん……私……」
俺は目を閉じて、頭を切り替える。田中との思い出が走馬灯のように頭に駆け巡る。
胸が苦しくなる。心が痛くなる。
それでも――リセットで田中の苦しみが消えるなら――
田中、俺は――ここからが本当のスタートだ。
見ててくれ。待っててくれ。
俺が、普通の、青春を――田中と――
――俺は苦しみをリセットした。
「と、藤堂!? だ、大丈夫!?」
目を開けると、そこには田中――が心配そうに俺の肩に触っていた。
俺が今まで積み上げた田中に対する好意が――愛情が――全て消えてなくなった。心の痛みが消えてなくなった。
あんなに愛おしく思えた田中への気持ちが――何も感じられなかった。
「――大丈夫だ」
「あっ……、初めてあった時の……藤堂……。へへっ、私、馬鹿じゃん。でも、これで華ちゃんと――」
俺は田中の言葉を遮った。
「確かに田中への好意は消えてなくなった。だが……、俺の胸に刻みつけた――思い出までは消せない――」
俺は理解した。リセットして色々経験した。人の心が少しだけわかった。
なら、何度でも人と心を交わせばいい。何度だって間違えればいい。
俺は普通じゃない事はいまさらだ。俺が成長して――
「田中――今度は俺を信じろ――」
顔から汗が止まらない。心には何も響かない。
それでも、俺は田中にその言葉を伝える。
「リセットから始まる青春でもいいだろ?」
田中は俺の言葉を聞いて――泣き崩れた。
俺は田中が泣き止むまで、隣で佇んでいた。
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