道場と笹身
今日も笹身美々は走るっす。
朝のランニングは一人っきり。寂しいなんて言ってられないっす。
しっかり柔軟をしてフォームを意識しながら軽く流す。徐々に速度を上げて息が苦しくなっても走り続ける。
苦しみなんて、先輩を傷つけた痛みに比べたら全然大丈夫――
後悔の苦しみの方がつらいっす。
フォームが乱れそうになると、先輩の顔を思い浮かべる。
私を全く見てなかった先輩――それでも先輩は私に優しい言葉をかけてくれたっす。
だから、先輩から教わった事だけは――大切にするっす。
私、馬鹿だから走る事しか出来ないっす……。
走っている時は余計な事を考えないから好きっす。唯一先輩を身近に感じられる時間っす。
直近の小さな大会は優勝する事が出来たっす。……でも先輩には報告できないっす。
会いに行くのが怖いっす。先輩のあの目が怖いっす……。
だから、心の中でしかお礼が言えないっす。
――先輩ありがとうございました。美々は……先輩のおかげで優勝することができました。
大会が終わった後だから、今日の部活は顧問の先生のミーティングだけ。今後の方針などを話して、すぐに早く終わった。
五十嵐先輩と佐々木先輩が楽しそうに談笑してるっす。……あの二人早く付き合えばいいのに。
二人は本当に楽しそうに走ってるっす。私よりも遅いから二人を馬鹿にしてたっす。本当に私は最低っす。
陸上部で仲の良い友達はいない。だって、私は清水先輩に取り入って媚を売っていた気持ちの悪い女って陰口叩かれているのを知っているっす。
同学年からも、上級生からも嫌われてるっす。それでも……大会に優勝できればいいと思ってたっす。……正直大会で優勝しても嬉しくなかったっす。だって……一番喜んで欲しい人に――伝えられない。
これは本当に苦しいっす。清水先輩に喜ばれても……もう嬉しくないっす。
五十嵐先輩が私の視線に気がついて近づいて来た。珍しいっす?
「おう、笹身、優勝おめでとう! ははっ、最近すげえストイックじゃねえか?」
「あっ、はい。ありがとうございます……」
私はなんて話せばいいかわからなかった。だって、五十嵐先輩は私と先輩の事を知っているはず。
「あん? 元気ねえな? お前はもっと厚かましい感じが似合ってっぞ。ていうか、藤堂に報告したのか?」
この人は何を言ってるっすか? ほ、報告なんてできるわけ無いっす。
「……してないっす」
「バカチンが! あいつ喜ぶと思うから報告しておけよ? ていうか、あいつ特別クラスに移動したんだぜ? すげえよな!」
噂では聞いていたっす。先輩は絶対陸上の選手として特別クラスに移動になったと思ったっす。だって、先輩……革靴で……高校生レベルを超えていたっす。あれはオリンピック候補になってもおかしくないっす。
「か、考えておきます――」
五十嵐先輩が笑いながらなにかを言おうとした時、清水先輩がやってきた。
「なんだ、笹身、落ちこぼれとは慣れ合うなよ? 笹身は俺のおかげ優勝出来たんだ。五十嵐、お前は落ちこぼれと固まってろ」
「……はぁ〜、清水、俺はお前と関わる気がねーよ。それじゃあな」
五十嵐先輩は佐々木先輩の元へ戻って行った。
「笹身、優勝できたのはいいが、何故俺の言うとおりの練習をしない? アドバイスと違うフォームで走ってるな? どういう事だ?」
清水先輩の練習は根性論だけっす。いつも言っている事が違った。
そんなアドバイスを聞いていたら……身体が壊れるっす。
私が無言でいると、清水先輩は怒鳴り声を上げた。
「おい、笹身、聞いてるのか! 俺はお前のためを思って言ってるんだ!! まったく、藤堂の魔の手から救ってあげた恩も忘れたのか? あの気持ち悪い男はまた華さんに近づいて……俺が助けてあげなきゃ……」
おかしいっす。今はそんな話はしてないっす……。
それに先輩は花園さんと友達っす。あの雰囲気を見てそんな言葉が言えるなんておかしいっすよ。
……あ、でも……私だって、先輩の事をストーカー呼ばわりしたっす。
自分の罪が私に重くのしかかる。
最低っす。清水先輩よりも私の方がひどい女っす。
だから――私は、走る事だけを考えるっす。それだけが……唯一先輩に対する恩返し。
適当に清水先輩を持ち上げて、媚を売って、その場を収めることは簡単っす。
顔を赤らめた演技も、媚を売る演技ももういらないっす。したくないっす。
「清水先輩……足、怪我してますよ? 庇っているのがわかるっす。だから、大会でも予選落ちだったっす。……フォーム直した方がいいっす。それに、藤堂先輩は……気持ち悪くないっす。あれは全部わたしの嘘っす。全部わたしが悪いっす……。だから藤堂先輩を悪く言わないで欲しいっす」
あっ、今まで溜まっていた心の何かが出てしまった。
泣きたくないのに涙が出てくるっす。だって――清水先輩が藤堂先輩の事を悪く言うのが耐えられないっす。全部わたしのせいっす。
清水先輩の顔が真っ赤になった。
怒りが膨れ上がる。
……藤堂先輩の目に比べたら……全然っす……。
清水先輩はわたしに向かって拳を振りあげようとしたけど、五十嵐先輩がそれを止めた。
「おい! 清水、それはやりすぎだろ!? この馬鹿野郎! 頭冷やせや!!」
「だ、黙れ!! 離せ!! こ、こいつは俺を馬鹿にしたんだ!! エースである俺を、この俺様を馬鹿にしたんだ!! 退部だっ、お、お前は退部だ!!」
「馬鹿っ、おまえにはそんな権限ねえよ!! 笹身は頑張ってるだろうが!! お前も――」
私はもう――いいかなって思ったっす。陸上は好きっす。それでも走る事は続けられるっす。もっと、もっと速くなって――
「あっ、大丈夫っす。私退部するっす――」
簡単にその言葉が出た。
走るのはどこでもできる。市民大会だって一杯あるっす。
陸上部を辞めるのは私のけじめ。私が先に進むため一歩。
贖罪にもならないけど、罪悪感も薄れないけど――必要な儀式。
だって、私は藤堂先輩を裏切った。報いを受けないのはおかしい。
「おいっ、笹身っ! お前頑張ってただろ!! 辞めるなんて――」
「さ、笹身、い、今のはただの冗談だ。な、辞めなくていい。お前は俺の弟子だろ? 俺たちが頑張ったから陸上部が――」
清水先輩を見ると、嫌な気持ちになる。それは自分を見ている感じっす。
……私……嫌な女っす。変わりたいっす……。
「お疲れっした!」
私はペコリと頭を下げてその場を去ろうとした。
その時、グラウンドに静かなざわめきが起きた。
特別クラスのスポーツ枠選手と――誰かが走っていた。
特別クラスの生徒は部活に所属していない。私達とは――あ、もう陸上部じゃないけど、別枠の存在っす。
練習をする時は、グラウンドではなくスポーツセンターを使ったり、大学生やプロと混じって練習しているはずっす。
――藤堂先輩。
「おい、あいつ特別クラスの選手だろ? 走り綺麗だな」
「横にいるやつだれだ?」
「ジャージでスニーカー……、素人にしちゃフォームが……」
「流石だな。俺たちとは全然違えな。高校生レベル超えてんぞ」
「あれ? おかしくない? 流してるレベル超えてるよね? これ……勝負してないか!?」
「おいっ、あいつスポーツ枠だろっ? なんでジャージが前に出てんだ!?」
「ジャージ速え……」
先輩が走っている。
それを見るだけで、私の心が……嬉しくなるっす……。
離れて見る事しか出来ないけど――胸がドキドキする、罪悪感も止まらない――
それでも、
先輩の綺麗なストライドを目に焼き付ける。
美しい体幹を目に焼き付ける。
私はいてもたってもいられなかたっす。
「な、なんだあいつは……。くっ、それより笹身! 話は終わってないぞ! 待てっ! 待ってくれ!!」
私は走り出した。グラウンドにいる先輩には迷惑かけられないっす。
荷物を持って、中庭を抜けて昇降口を抜けて――外へ飛び出して――
******************
「うぅ……、べ、勉強ができないよ……」
まさかここまで自分の頭が悪いとは思わなかったよ。
自分は勉強ができると思っていた。テストの成績が上がって調子に乗っていた。
――全部藤堂のおかげだったんだね。
私は一人で下校しながら頭を抱えていた。
友達の誘いも断った。ていうか、友達も少なくなっちゃった。
今はそれでいい。藤堂と……いつかまた普通に話せるために、テストでトップを取る。
そう心に誓った。
「はぁ……でも、難しいよ」
心が折れそうだ。元々の成績が良くなかった私はいつも逃げに走る。ずるい性格だってわかっている。友達から遊びの誘いもあったけど……そんな気分じゃなかった。
泣いても、後悔しても、頭が良くなるわけじゃない。
あの時の藤堂の顔を忘れられない。こんな私と向き合ってくれた。
――うん、いきなりじゃ駄目ね。まずは勉強方法を思い出すのよ。
藤堂は昼休みにテストに出そうな問題を教えてくれた。
私は何も考えずにそれを教わっていただけ……。
勉強法を教わった事はない。
……でも、藤堂は丁寧に問題を解説してくれたよ。
藤堂は言っていた。問題の意味を理解する必要がある。ただ暗記するのではなく、物事の流れを理解することが大事――
なら私は基礎から覚え直そう。うろ覚えなところや、すっとばしたところを完璧に理解しなきゃ。
うん、家に帰ったらまずはスマホを封印して――外部の接触を断って、勉強する習慣をつけよう。
藤堂の言葉を思い出す。
『テストでトップを取ったらカラオケに誘ってくれ』
罪悪感とともにやる気が湧いてきた。
「よしっ! 今日はお父さんのお店の肉じゃが食べて頑張ろっ! ――あれ?」
隣のベンチを見ると、うちの学校の女生徒が座っていた。ジャージ姿?
なんか見たことがある顔ね……。
私は女の子の顔を覗き込んだ。汗だくで……泣いてるの? 顔が腫れぼったいよ?
タオル無いのかな? うん、ちょっと待って――
私は女の子に話しかけた。
「――ねえ、君さ、タオル使う? あ――無駄に元気な後輩?」
「ありがとうござ――っす? 図書室のあざとい人?」
私はこいつを知っている。陸上部の1年生で、藤堂の事を師匠って言っていたやつだ。
自分が可愛いと思っているヤバい子ね。藤堂が騙されないか心配だったけど――
「ほら、使いなさいよ」
「……意外と優しいっすね。噂と大違いっす」
私もそうだけど、この子も藤堂に冷たくあしらわれたって聞いたよ。
中庭の件は結構みんな知ってる。
私の件も後輩に知れ渡っているのね……。仕方ない……。
私達は同じベンチに座ってため息を同時に吐いた。
「「はぁ……」」
お互いの顔を見合わせる。
「……笹身美々っす。確か……道場先輩っすよね? 藤堂先輩から聞いたっす」
「ええ、笹身さんのことは藤堂から私も聞いてたよ? ねえ、あなたも馬鹿な事したんでしょ?」
「――そっすね……。死ぬほど後悔したっす……」
「ええ、そうよね。私と一緒ね……、あのさ、もしよかったら話さない? 私達がしでかした事を――」
私達はベンチでずっと喋り続けた。
話を聞いていると、ムカムカしてきたり、共感することがあったり、悲しくなったり……。
共通して言えるのが――半端じゃない後悔をしている事。
「そうっすか……、道場先輩は馬鹿だったんすね」
「はっ? あんたも相当馬鹿よ?」
お互い理解している。自分たちが馬鹿だった事を。
「ねえ、あんたはこれから陸上部を辞めて……それでも走るの?」
「はい、私馬鹿っすから、速くなっていつか大きな大会で優勝して――藤堂先輩のおかげですっ! ってテレビで言いたいっす」
「い、意外と大きな目標ね……。私も勉強頑張るよ――、うん、学年トップになって、私も藤堂のおかげだよって言いたいな」
「頑張るっすね」
「あ、あんた上から目線よね……。まあいいか、ねえ、いつか藤堂とちゃんと話せるようになりたいね……」
「……はいっ……今は無理っす。迷惑かかるっす。だから……頑張るしかないっす」
「そうね。うーん、よしっ、あんたの連絡先教えなさいよ。大きな大会で優勝したらうちの店の肉じゃがおごってあげるよ?」
「あっ、和食っすか? 天ぷらが良いっす!」
「こ、このクソガキ……、ぷっ、ははっ……なんでおかしいのかな?」
「道場先輩は年増っすね! へへっ」
いつしか私達は笑っていた。言葉は汚いかも知れないけど、藤堂の事を本音で話し合える人は今まで誰もいなかった。私達は同じ罪悪感を抱えている――
そんな私達が話しているのがおかしいのかもね。
なんだかんだ言いながら私達は連絡先を交換した。
「道場先輩、必ず連絡するっす! 私――先輩と話せて良かったっす!! 失礼っす!」
笹身は意外と礼儀正しくお辞儀をして去っていった。
走り去っていく後ろ姿に――何故か勇気づけられた。
「よしっ、私も頑張ろっと!! ゲームもスマホも禁止! 笹身に負けないんだから!!」
なんだろう? 友達じゃないけど……仲間が出来た気分だよ?
世界が少しだけ広がった気分……。
私は頭を切り替えて――勉強の予定を立てながらあるき始めた――
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