六花とハンカチ


 ある日、犬の姿が見えなくなった。

 飼い主の元へ帰った、と優しい大人が俺に言った。

 俺は胸が苦しくなった。もう二度と会えない。頭の中で考えがうまくまとまらなかった。

 初めての友達が突然消えた。

 俺はこの苦しさを――痛みを――消したかった――





 職員室で先生と話した後、俺は……自分の教室に向かった。

 流石にすぐに特別教室へ移動は出来ない、と言われてしまった。

 ……当たり前である。

 それでも、今週中には移動できる段取りを付けてくれるらしい。


 先生たちは俺の異常性を薄々感じていた。

 一切本気を出していなかったが、俺が時折見せる学力、運動能力に何か感じる事があったようだ。

 先生の提案で一度だけテストを受けた。そこまで難しくないテストであった。

 俺は友達が出来て変わった。それを真面目に受けようと思った。


 先生はテストの結果を見て、呆然としていたのを覚えている。

 そして、先生は、俺に取って特別教室は有意義な体験になると言ってくれた。

 ……俺は大人を信じていいかわからない。


 あいつらは――俺を壊そうとした。


 ……この学校の先生は違う。頭では理解している。だが、心に残った記憶は忘れられなかった。それでも俺は前に進もうと思う。勝手に信じて、裏切られたら仕方ない。諦めるしかない。








 教室の扉の前に俺は立つ。

 ――これが――気まずいという事だろう。

 特別クラスに行くと言って教室を飛び出してから、15分しか経っていない。

 ……あれだけ意気揚々と教室を出て行ったのに……何事も無く教室へ戻るのがとても恥ずかしかった。

 

 ど、どうしよう――落ち着くんだ。先生と話して、企業訪問は特別クラスで行く予定となった。特別クラスは出席しない生徒も多いから、一人で行っても構わないそうだ。……田中も行くのかな? 田中と一緒に行けるかも、と期待している自分に――ひどく驚いた。




 ――よし、こっそり教室に入ろう。気配を消そう。


 扉に手をかけようとしたら、自然と扉が開いた。

 ――野球部のひょうきん者の山田君? 


「おっ、帰って来たぜ! おい、藤堂、お前すげえな!! 特別クラスだぜ? 六花に勉強教えてたから勉強枠か? かーーっ、頭良かったのか!! 教えて貰えばよかったぜ!」


 その隣にいるのは春木君だ。


「山田〜、声でけえよ。藤堂困ってんだろ? ていうか、藤堂と接点なかっただろう? たくっ、今更遅いんだよ! おう、藤堂も早く中に入れや」


 今はロングHRの時間だ。班分けが決まったら自習になる予定である。

 クラスメイトは軽い雑談をしながら教科書を開いていた。


 恥ずかしがり屋の佐々木さんが、目立つのを構わず俺の方へトコトコ近づいてきた。


「……と、藤堂君……わ、私……役に立て無くて……ごめんなさい……」


 佐々木さんの友達は温かい目で見守っていた。やっぱり佐々木さんは愛されているんだな。


「佐々木さんは悪くない。俺が特別クラスに行く事を言えなかっただけだ」


「す、すぐに行っちゃうの?」


「……いや、今週中だ。佐々木さん、話しかけてくれてありがとう。嬉しかったよ」


「わ、私――怖がって……隣の席なのに話せなくて――、ク、クラスのみんなにも藤堂君がとても良い人だっていうことを知って欲しかったのに……全然出来なかったよ」


「俺がクラスメイトとうまく話せないだけだ。問題ない。それに……佐々木さんとは友達になれた」


「うん……、あ、藤江ちゃんだって藤堂君と話したがっていたよ! 班も一緒でも良いって言ってくれたし! も、もっと早く相談できれば――」


 人間関係は難しい。佐々木さんでさえ、一つ間違えば色々大変な事になる。

 だから、佐々木さんが迷っていたのは仕方ない事だ。


 俺は五十嵐君と佐々木さんには感謝をしている。

 普通の青春というものを肌で感じる事が出来た。佐々木さんと五十嵐君を見ていると背中がムズムズする。小説だけでは経験出来ない事であった。


 ――俺も体験できるのかな? 


 頭に――花園と手を繋いだ記憶が浮かび上がる――田中の匂いが記憶を呼び起こす。


 俺は頭を軽く振って――佐々木さんに――微笑みかけた。



「――佐々木……。ここは学校だ。いつでも会える。五十嵐……と一緒に会いに来てくれ。もちろん俺からも会いに行くぞ? むっ、佐々木は五十嵐の話をすると、感情のゆらぎが落ち着く。やはり青春とは素晴らしいな」



 佐々木は俺の顔を見て――固まっていた。

 どういう事だ? じょ、冗談を返してくれると思ったのに? お、俺は何か間違えたのか?


「藤堂君――笑った顔素敵だよ。……花園さんと田中さんに見せてあげてね? ふふっ、お返しだよ」


 俺は胸をなでおろした。間違えてなかった。些細な事だけど――俺は成長出来たんだな。





 俺と佐々木は席に戻ろうとすると、クラスメイトの一部から声をかけられた。佐々木曰く、みんな俺の事を心配していたらしい。いや、これは佐々木のおかげだ。佐々木を通して俺を知ってくれたんだ。



「なんだ、藤堂って意外と普通じゃん? 誰だよ、不良をボコボコにしたって噂流したの」

「てか、最近おしゃれになってね? 花園さんと付き合ってんのかな?」

「特別クラスの子と仲良いって話し聞いたぞ?」

「藤堂っ!? べ、勉強教えてくれ!! この問題がわかんねーんだよ!!」

「馬鹿、雰囲気ぶち壊しだ! ていうかお前だけ、ずりーよ!」

「お前ら今まで話した事ないくせに何言ってんだよ? 怖がってただろ?」

「んあ? 男子と話さない佐々木ちゃんが話せてんだぞ? 大丈夫だろ。腹黒よりもいいだろ」

「ねえ、さっきの笑顔――ヤバくね?」

「う、うん……六花ちゃんが好きになっちゃうのもわかるかも……。あっ、言っちゃった、へへ」



 俺は混乱する頭を切り替えた。

 問題に対処する。


「俺は普通を目指しているだけだ。暴力は嫌いだ。俺のコーディネートは花園にまかせている。花園は付き合ってない、大切な友達だ。田中も友達である。勉強は……遠慮しておく、面倒を招きたくない。やはり俺は怖かったのか? これからは廊下であった時は普通に話しかけてくれ……。佐々木は良い人だ。俺の笑顔? 俺は笑ったのか? ……ヤバいとは? 一体……よくわからない。六花……道場さんのことか。道場さんはあまり関心がない」


 俺は初めてこんなに一杯喋った。

 クラスメイトたちは一瞬キョトンとしたけど、笑い声をあげた。

 その笑い声は――俺を馬鹿にして笑っている様子ではない。

 何か温かい空気を感じる。

 クラスメイトは佐々木を通して俺を見てたんだ。 


 なるほど、笑うという行為は――ストレスを発散させることができるんだな。傷つける行為では無かったんだな……。

 







 笑っていない生徒も数名いる。

 視界に入れないようにしていたが、道場さんはずっと泣いていた。嘘泣きではない。

 感情を抑えられない嗚咽が聞こえてくる。


 友達が道場さんを必死で慰めている。

 ……泣いている理由はよくわからない。だが、先ほど俺に話しかけた後で泣いてしまった。俺に問題があったのか?




 道場さんは俺に悪意を振りまいた。彼女への好意は消えている。


 小さい事から問題は大きくなる。初期対応の動きで問題の解決速度が上がる。

 きっと人間関係も一緒なんだろう。


 女の子が泣いているのは見てて気持ちの良いものではない。





 俺は自席に座らず、道場さんに近づいていった。


「おっ、ダメ押しか?」

「ちょっと男子ーー、やめなさいよ!」

「放っておきましょう」


 道場さんの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃであった。

 俺には理解出来なかった。俺は道場さんとまともに喋っていない。

 ただ、俺の意思を伝えただけだ。

 ――よし、怖がらせるな。花園と話す時のように。


「何故道場さんは泣いている?」


「――ひぐっ……な、泣いてなんかないよ!? ……ひぐっ……だって……藤堂が……」


「俺が? 俺は道場さんと関わりを無くしたはずだ」


「な、なんでそんなに冷たいのよ? わ、私が意地悪したから怒ってるんでしょ!! あ、謝るから――ご、ごめんな――」


「いや、謝罪の必要はない。どうやら俺のせいで泣いているんだな? ――俺が悪かった。道場さんの意地悪を冗談だと思えなくて――心が痛くなるくらいなら――消してしまおうと思っただけだ。だから道場さんは悪くない」


「ば、ばか……わ、悪いのは……私よ……、い、意地悪なんてしなきゃ――」


「すまない――」


「な、なんで謝るのよ……。き、嫌いになれないじゃない……、なんでそんなに優しいのよ! あんたの事騙したのは私よ! ほ、ほら、私のこと責めなさいよ――」


「出来ない――」


「あ、あんたが責めてくれなきゃ――わ、私――意地悪なんてしなきゃ……私……謝らせてよ……お願い……苦しいよ……」


 頭の中で、今までの経験を構築する。

 ――道場さんは後悔をしている。俺に悪意をぶつけた事を。それがカラオケの件を指しているのがわかった。俺は道場さんへの好意をリセットした。

 関係ない人になった。



 ――道場さんとの勉強会。頭がすこぶる悪かった道場さんの勉強方法は散々であった。つい口に出してしまった。道場さんは『あんた地味だけどすごいよ! ねえ、勉強教えて!』目をキラキラさせて俺に言った。

 意地悪な冗談を言ってくるけど、明るくて自由奔放な道場さんは人間味が溢れていた。可愛らしい人であった。


 俺も道場さんと話すのは楽しかった。


 ――だから、悪意が激しい刃と化す。落差が俺を殺す。



 リセットしたら――終わりなのか? 俺は自問自答する。


「ね、ねえ……ほ、本当に特別クラスに行っちゃうの?」


「ああ、先生と話した」


「わ、私のせい? わ、私がこのクラスにいるから?」


 俺は首をかしげる。見当違いである。


「――道場さんの事と関係ない。俺は俺の意思で特別クラスに行く」


「な、なら、謝らせて――お願い――わ、私――もう、二度と藤堂と関わらないから――」


 道場さんの吐息が荒くなる。少々過呼吸気味になっている。あまり良くない状態だ。


「道場さん――」





 心に任せて喋るんだ。


「俺はクラスメイトとカラオケ行くのが――すごく楽しみだった。友達がいない俺を誘ってくれて嬉しかった。だから――誘ってくれてありがとう。だけど、俺は……誰もいない場所で待っていて……すごく寂しかった」


「あっ……」


 青ざめた顔の道場さんの身体が震えてる。体温が低下している。自分の罪に押し潰されそうな表情。



 言葉がうまく伝えられない。もっと違う言葉があるはずだ。


「……道場さんは――クラスで一番初めに友達になった。その事実は残っている。俺は一緒に勉強できて楽しかった。勉強を教えるだけの友達でも良かった。普通が実感できた。俺は道場さんに感謝をしている。――たとえ、リセットしたとしても感謝の気持ちは忘れない」


 そうだ、俺が消したのは胸の痛み。


「俺はもう二度と関わらないと言った――。道場さんも謝るから関わらない、と俺に言った」


「う、うん……」


 道場さんの鼻水が制服にたれそうだ。

 俺はハンカチを取り出す。


 道場さんの顔をハンカチで拭う。


「――んっ!? と、とう……」


 俺はハンカチをそのまま道場さんに渡した。




「道場さん――関わらないって言われると寂しいんだな。心に穴が空くみたいだ。……なら、俺はもう言わない」



「と、藤堂? でも、わ、私……藤堂に関わっちゃ駄目――藤堂の気持ちを踏みにじって……わたし調子に乗って……」


 ああ、二度とあんな気持ちになるのはゴメンだ。それでも――人は成長できるんだ。

 俺だって花園がいなかったら――

 

 俺はポケットからもう一枚のハンカチを出した。一枚では拭いきれない涙と鼻水。

 そっと道場さんに手渡す。

 俺は思っている事をそのまま口に出した。




「俺の勉強会が無くても、道場さんがテストでトップを取れたら――いつかまた……カラオケに誘ってくれ」





 道場さんの嗚咽が激しくなる。


「ひぐ……ひぐっ……、と、藤堂、ごめんなさい……私……一からやり直す…………傷つけて……ごめんなさい……私、が、頑張る……ひっぐ……」



 関わるつもりが無かった道場さんと感情をぶつけて喋った。この結末が良いのか悪いのかわからない。


 それでも、俺の胸の内は不思議とスッキリとしていた。


 


 道場さんは俺のハンカチを握りしめながら、人目も憚らず、子供の様に泣きじゃくっていた。






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