笹身の上履き

 機械的にトレーニングをこなした。

 痛い事もあったけど、勉強に比べて苦痛は少なかった。ある日大きな犬が教室に現れた。

 優しい大人が一緒に遊んでいいと言ってくれた。

 初めて触れた犬は、柔らかかった――





 徐々にだが、俺の友達の輪が広がって行くのを感じる。

 中庭で昼食を食べている時に田中からメッセージが来た。


『今どこにいるの?』


 なるほど、メッセージでは口癖がなくなるのか。

 俺は素早く返信をする。

 花園は首を傾げていた。


「珍しいね。メッセージ使うなんて。あ、田中さん? なんか藤堂からの話しを聞くと、い、良い感じでケ、ケーキ食べたんだね?」


「ああ、田中は良い奴だ。ケーキも美味しかった」


「――そっか、良かった。藤堂にも友達ができそうだね?」


「そういえば、あいつは俺たちと友達になりたいって言ってたぞ?」


「私達? あの子って友達多そうだけど……?」


「意外といないらしい――」


 俺たちに近づいてくる人の気配がした。

 匂いで田中ではないとわかった。





「おーい、藤堂! てめえ、また花園と飯食ってんのか!? 今度俺たちと一緒に食おうぜ!」


 何故かジャージ姿の五十嵐君が中庭に現れた。

 隣には佐々木さんがいる。佐々木さんは大声を出している五十嵐君に小声で「は、恥ずかしいよ……」と呟いていた。


「あんたうるさいわよ! せっかくの二人っきりの時間を――って、ああんっ、私の馬鹿っ!」


「けけっ、墓穴掘りやがった。ていうか、今更気にしねえよ」


 二人は俺たちに近づく。

 俺は五十嵐君に質問をしてみた。


「なんでジャージなんだ?」


「あん? ああ、午後の授業が体育だからな! 面倒だからさっき着替えたぜ!」


「なるほど、理にかなっている」


 佐々木さんは俺の方をチラチラを見ている。

 教室では視線を合わせる事がない。俺はなるべく彼女を怖がらせないように慎重に行動をしていた。それでも、彼女からの視線を最近感じる。気がついていないふりをしていた。


「ミキティ、ほら、言いたいことあるんだろ?」


 五十嵐君は顎で佐々木さんを促す。


「う、うん……」


 佐々木さんはちんまりと前に出た。

 小さい身体は緊張感で溢れていた。

 俺も緊張してしまう。


「と、藤堂君。こ、怖がってごめんなさい。わ、私……最近藤堂君を見てると、本当は怖くないのかなって思って……」


「なあ、俺のどこが怖いんだ? 俺は自分でわからない」


「え、あ……。全然喋らないところとか……。誰かと喋っても予想の斜め上の返答だし……。表情が変わらないところとか……、あ、ごめんなさい――」


「いや、助かる」


 佐々木さんは手に持っていた本を俺に差し出した。

 これは?


「と、藤堂君、しょ、小説とか読んでみたらどうかな? わ、私小説とか映画が大好きなんだ。きっと、物語を通して――人の心がわかって――」


 物語か……。確かに花園と映画に行っても俺は内容がさっぱり理解出来なかった。なんでお客が泣いているのかわからなかった。花園はその時泣いていたな――


 俺は泣き顔の花園を思い出した。

 悲しそうだけど、嬉しそうな、さっぱりとした花園の泣き顔。とても綺麗だった記録がある。


「佐々木さん。ありがとう――俺、読んでみる」


「は、はい! これ面白いですよ。主人公の心情とヒロインの心の葛藤が素敵に描かれていて……かっこいい男友達もいて――ふふっ……男友達と……主人公の絡みが……」


 五十嵐君が佐々木さんの制服の裾を引っ張る。


「おいっ! ミキティ、飛ばしすぎだっての! ったく、まあ、なんだ、ミキティはお前を心配して――」


 大丈夫だ。俺にだってそれくらいわかる。空気は読めないけど――人の心には敏感だ。


 俺は五十嵐君の肩を軽く叩いた。

 確かこうだったかな?


「って!? だから力強えよ!? ……そうだ、藤堂さ、ちょっと腕相撲しねえ? この前からお前の筋肉が気になってよ。ぜってえ強いだろ? 俺クラスでトップだからまけたくねえんだよ!」


 佐々木さんと花園は顔を見合わせていた。


「男子って子供ね」

「は、はい、小学生みたいです……」


 ――小学校は生きるか死ぬかの修羅場じゃないのか?


「ところで……腕相撲ってなんだ?」


 その言葉を言った時、五十嵐君は何故か――同情? 友愛? 困惑? そんな感情を包み込んで、無理をして笑った顔で俺に言った。


「なら――初めてだな……。一緒に楽しもうぜ!」





 中庭のベンチの横にある小さなテーブルで腕相撲というものをすることになった。

 花園は何も止めないから間違えていないのだろう。


「花園、合図頼むぜ!」

「あ〜、はいはい、位置について――」

「ちげえよ!? レディーファイッ! だろ?」

「え、なにそれ? は、恥ずかし過ぎるわ!?」

「しゃーねーなっ、俺が自分で合図すっぜ? 藤堂、行くぜ?」




 俺と五十嵐君は手を握り合う。握った瞬間、五十嵐君は驚愕の表情をしていた。なる

 ほど、力を比べる遊びか。

 これは持ち手の場所によってテコの原理が働くからグリップが大事なんだな。

 ……ただ腕の力で押し倒す遊びじゃない。技術的な体系が予測される。ふむ、興味深い。足と身体全体の筋肉が重要だ。


「レディー…………ファイッ!! 行くぜっ!! ッ!?!?」


 やはり陸上部という事だけあり、筋肉量が多い。それでも腕の筋トレをサボっているからこの程度の力では――


「んぎぎぎぎっ……ちょ、まてよ……ぐぎぎぎっ……お、俺……本気なんだぜ!? 動かねえよ!?」


 十数秒経っても、五十嵐君は俺の腕を動かす事が出来なかった。

 相手の腕を地につけたら勝ちなんだな?


 俺はゆっくりと五十嵐君の腕を押していった。あんまり強くすると怪我をしてしまう。

 五十嵐君の腕をテーブルにつけると……


「ちょ!? いててっ!? う、腕がーー!! ストップストップ!! ――はぁはぁ……藤堂すげえなっ……俺、力だけは自慢だったのに、ははっ!! やっぱ面白えわ!! 今度部活来いよ……って、この前誘ったけど、やっぱうちの陸上部は無理だしな」


 腕を軽くさすりながら俺は五十嵐君の話を聞いていた。


「何故だ? 陸上部は――」


「ああ、陸上部って人間関係がちょっとな……、まあ俺もミキティも落ちこぼれだし……色々面倒なんだよ。まあいいや、今度遊ぼうぜ!!」


「善処しよう……あっ、いや、あ、遊ぼう」


「おう、約束な!!」



 俺たちはそのまま、中庭で雑談をしながら過ごす事にした――






 ********************






 中庭に続く廊下。

 手鏡で自分の顔を見る。今日も美々は可愛いっす。思わずうっとりしちゃうくらい。

 ……自分の発言がしくじった事は理解してるっす。

 だって、先輩の身体能力は異常っす。


 あの速度で走っていた朝のランニングが手を抜いていたなんて思わなかったっす。

 私……本当は後悔してるっす。清水先輩が霞んで見えるくらいの速さっす。ちょっと格好良いと思ったっす。


 私は、清水先輩に憧れていたから……先輩にあんな態度取ってしまって……。


 私が悪かったのはわかってるっす。

 でも、自分の欲が制御出来ないっす。

 だって、先輩も清水先輩もどっちもほしいじゃないっすか?

 憧れの人で陸上部を牛耳っている清水先輩に嫌われたら……生きていけないっす。


 ……先輩は……優しくて甘そうだから、後で謝れば大丈夫そうと思ったっす。ちょっとだけ怒っていた感じだったけど……平気っすよね? 警察は言い過ぎたっす……でも、あれくらい言わないと、頭が硬い清水先輩は信じてくれないっす。


 それに、先輩にとって美々は可愛い後輩っすから! 先輩にも可愛いって言われた事があるっす! 絶対許してくれるっす! 清水先輩のせいだってわかってるはず。



 でも、

 ――全然先輩に会う機会がなくなったっす。

 朝のランニングでも姿が見えないし、学校でも会わないっす。

 流石に上級生のクラスに行くのは……清水先輩には、先輩に会っているのがバレたくないっす。


 私が泣いて謝れば絶対大丈夫なはず。

 ……最近フォーム見てもらってないから不安っす。


 正直、先輩から教わってから……すごく身体が軽くなった。

 実力以上の力が突然振って湧いて出たような気持ちっす。

 整体みたいに身体をバキバキしてくれると、すごく身体が楽で、いくらでも走れる感じだった。


 いつも親切に丁寧に私のトレーニングを見てくれて、身体の心配をしてくれて――なのに――私は先輩の事、ストーカーとか言っちゃって……、早く謝らないと……拗れたままだと教われないっす。

 ……先輩、結構かっこいいから、もっと自分を磨けばいいのに。そうすれば、私は先輩の方に――


 あっ、先輩だ!! 友達と一緒にいるっすね?

 あれは……五十嵐先輩っすか……。先輩友達いたんだ……。

 でもチャンスっす。


 なんだか、先輩、嬉しそうな顔をしてるっす。あんな顔初めて見たっす。

 それに、格好が小綺麗になっているっす。あれ? あんなにかっこよかったっすか?

 ちょっと胸が高鳴るっす……。やばいっす。反則っすよ!


 廊下のガラスに映る自分の姿にほほえみかける。

 うん、これなら先輩も許してくれるっす!


 いきなり抱きついたら驚いて好感度アップっすね。

 胸を押し付けれてそのまま泣いて謝れば――


 私は先輩に向かって静かに走り出した。

 先輩はまだ私に気がついていないっす。五十嵐先輩と話してる。


 笑みが自然と溢れる。

 うん、私って先輩と走ってた時が一番楽しかったんっすね。

 無くしてから気がついた。

 また一緒に走れると思うと――ふふ、嬉しいっす。




 わぁ、背中大きい……。

 先輩――

 なぜだか、愛しさがこみ上げて来た。走りを教わっているだけの関係なのに――先輩の事が――


 私は先輩の背中を――


「せんぱぁーい!! 久しぶりっす!! 笹身美々っす!! っ!?」


 抱きしめようとした先輩の身体がどこにもなかった。

 私は勢いで――身体のバランスが――ころんじゃう!?


 ――転ばなかった。

 誰かが襟首を掴んでくれている。……ちょっと苦しいけど――


 そのまま私を立たせてくれた。

 顔をあげると、そこには先輩が立っていた。


「せ、先輩っ! ありがとっす!! やっぱり美々には先輩しかいないっす!! 先輩――えっ?」


 先輩は私の顔を見ようとしなかった。

 まっすぐに五十嵐先輩を見ていた。



「五十嵐君、怪我はないか?」


「あ、ああ、大丈夫だぜ? ていうか――笹身か?」


 ああ、外野はうるさいっす!! 今から先輩に許してもらうっすから!!


「先輩!! ……この前は……清水先輩のせいで……ごめんなさい。仕方なかったっす……清水先輩に睨まれたら……」


 私は泣きながら先輩に訴えた。

 でも違和感が感じるっす。


 あんなに優しかった先輩の雰囲気がおかしいっす。先輩は無言で私の顔を見た。

 背筋が凍りついた――


「え、あ、せ、先輩ぃ……」


 こぼれ落ちるような声しか出せなかった。

 先輩から何も感情が感じられなかった。この前の事を怒っているとか、愛想を尽かしたとかじゃないっす。あの時は、先輩が走ってグラウンドに行っちゃったからよくわからなかったけど――


 先輩の瞳は私を見ていないっす……。私という存在を認識してないっす。

 急に心が後悔で締め付けられた。


 わ、私――もしかして――取り返しのつかない――先輩の心を傷つけて……。


 焦りが意味のない言葉を生み出す。


「せ、先輩……ほ、本当に先輩っすか?」


 恐怖心を押し殺して、先輩に聞く。





「――君こそ誰? 俺は知らない――」




 感覚でわかる。嘘を付いていない。私の事を――全然知らない。

 軽い気持ちだった。清水先輩とうまく行くために、先輩を切り捨てたっす。

 そのせいで……優しかった先輩の心が?


 わ、私のせい? そう思うと――心がズキズキと痛むっす。これって何すか? わ、わたし……


「さ、笹身美々っす。一緒に朝練をしてた、こ、後輩っす……」


「ああ、大丈夫、記録にある。だが、君はもう知らない人だ。俺の前に現れるな」


 先輩の言葉がナイフのように私の心臓に突き刺さる。言葉は平坦であった。平坦過ぎる言葉が切れ味を増していた。


「あ、謝り……たくて……」


「必要ない。俺は――やっとわかってきたんだ。大切な人との関わりを――だから――部外者は関わらないでくれ」


 先輩が――花園先輩と五十嵐君たちを見る。その時の顔は……私の朝練に付き合っていた時よりも――悔しいけど輝いていた。


 私に顔を向けると、表情が無機質な物に戻る。

 ――怖い……。でも、私――






「よーーっす! 藤堂っ! えっと、花園ちゃんだっけ? やっと来れたじゃん!! ……あれ?」



 先輩の名前を呼んでいるあれは――特別クラスの田中先輩だ!? ぜ、全然友達作ろうとしなくて、しかも有名芸能人の弟がいるって噂の超美人ギャル――


 先輩が田中先輩を見た時――先輩の空気が……ふんわりとした優しい雰囲気になった。優しい瞳がとても魅力的で――気持ちが溢れていた。

 それは私が今――求めて欲したもの――


 わ、わたし……が、あんな事したから……だ、だって清水先輩が……

 ……も、もう取り戻せないの!?


「田中、紹介しよう――花園だ――、あっ、あと、こっちは五十嵐君と佐々木さんだ」


「あれ? その小さい子は? なんか泣いてるじゃん?」


「ああ、紛れ込んだ――知らない子だ」




「――――あ……」




 私はこの時、理解した。

 自分勝手でわがままな過去の自分を殴りたかった。


 ――だって、私はあの輪に入ることが絶対出来ない。





 私は走り出した――

 廊下に向かって……だって、陸上部っす。走るのが仕事。


 上履きから膝に痛みが伝わる――

 無茶苦茶な走りが身体に負担を――


 背中から声が聞こえた――



「――笹身さん。もう怪我は治っている。庇っている足が危ない。早く病院に行くんだ」



 無感情なその大声は――私の心に響く。

 それは感情が無くても――本人の優しさが伝わって来る。

 その言葉が引き金で感情が爆発してしまった――


 なんで……こんな私に……優しいっすか!?!? 


 う……うぅ……うわぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜!!! 



 感情の波が襲いかかる。私が今まで経験したことがないほどん痛み。





 私はいつの間にか、上履きが脱げて……裸足で廊下を走っていた――



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